……アサシンが召喚されたのは、実に一昨晩前に遡る話となる。 夜半過ぎ、その日も士郎は自家の土蔵に篭り、習慣となっていた我流の魔術鍛錬に勤しんだ。 臨むは、物の素材や構造を把握し、魔力を通すことで一時的にモノの特性を補強する強化魔術。 たまたま士郎が手にしたのは一振りの短剣だった。より鋭くあることをイメージし、魔力を通す。 集中。 集中。 集中。 展開。 そして――― いつものように失敗した。 これが普段なら、士郎は失敗したことを落胆し、疲れきって就寝しただけだっただろう。 だが、時は聖杯戦争の最中である。 拙いながらも、冬木の町に残る魔術師が、衛宮士郎ただ一人であるという現実。 その上、彼が工房とする土蔵の床には、先代切嗣が残した召喚用の魔方陣。 ここで魔術を――― 成功の有無に関係なく、魔力を通す行為を成したのならば、結果は追随する。 破綻したはずの魔術の果てに、土蔵を満たした光の奔流の中に、黒いサーヴァントは現界した。 アサシンは思った。 否、未だ考えるだけの知性がないことから、感じた、察したと表現するべきかもしれない。 自分には"心"が必要である、と。 アサシンは他のサーヴァントと少々成り立ちを異にする特殊なクラスだった。 不確定に召喚された英霊がクラスに押し込まれて現界のに対し、アサシンは常に同じ存在が呼ばれる。 その真名もまたアサシン――― 「ハサン・サッバーハ」の名を持つ亡霊だった。 個を絶し、ハサン群体の一部として召喚されるアサシンは、本能のみで行動し、空ろに漂うだけ。 主の命が無ければ、ただ防衛を目的にする以外に、自ら動くということはない。 その主となったのが、聖杯戦争を微塵も知らぬ士郎である。 これでは拙い。 好き嫌いの問題ではなく、そもそもアサシンにはそのような高等な感情はない。 単純に、今のままでは勝てないと思った。 彼、或いは彼女であるかも分からぬ身なれど、欲し、渇望する"願い"がアサシンにはあった。 他の者からすれば、酷く瑣末な願いに映るかもしれない。 しかし、死してなお奴隷に堕ちてまで、アサシンはその願いの成就を求めた。 そのための聖杯。 真実、アサシンほど純粋に、願望器としての聖杯を求めているサーヴァントは稀ですらある。 かといって、他の英霊が手を抜いてくれるわけでもない。 仮に手を抜いてくれたとしても、今のアサシンに立ちはだかる壁は分厚く、見上げるほど高い。 だからこそ、心が――― 思考を産み落とす「心臓」が、必要だった。 ―――今それが無いというなら、他から奪うだけのこと。 Faceless token. 03 / Heart 風が止んだ――― 何時の間にか叢雲は溶けていて、夜空の天蓋に集う光点が蒼昏く瞬いていた。 月下、場に空寂が満ちるのは、何も嵐との格差と相まっただけではあるまい。 皆が言葉を失い、実存以上の静謐が降りていた。 理由。 嵐の中で起きたことを魔術師側は知らぬが、結果は一つの像を映していた。 粛々と注ぐ月光が落とした影は二つ――― 鋼の巨人と碧眼金髪の少女。その急性な光景に目を剥く。 少女が手にするのは星が鍛えた聖剣。 代用の鞘たる風を纏わぬために実体。 其は巨人の左肩口を砕き、血汁を煮え立たせ、分厚い鋼の胸半ばに埋まっていた。 … それは、僅か一桁秒の刹那に起きた出来事だった。 枷を解かれた嵐に際し、その元凶であるが故に風上に立つセイバーは、災禍の中心で生じた異変を覗む。 その異変とは、至極簡潔に、予期せぬ来訪者が現れたこと。 ちょうど黒衣の周囲だけが切り抜かれたように開き、その中を、黒いサーヴァントが飄々と闊歩していた。 嵐の只中で集束し、隆起した影の名はアサシンという。 抗うのでも、流すでもなく、アサシンは風を ――― 否、風の方がアサシンを避けていた。 理屈は通らぬが、出来ることの理由はあった。 『 風除けの加護 』 術者ではないアサシンが唯一、たまたま出自の因から取得し、行使できる中東呪術。 砂塵吹き荒れる砂漠に生きる者が、自己防衛を目的に身に宿らせた精霊の加護。 協会と異なる理で組まれた魔術であるがため秘匿性は高いが、純粋に風を避けるだけの効果しかなかった。 だが、それも使い方一つで武器になる。 手段に括る暗殺者は一流と呼べず、アサシンは利用できるものなら何だって利用した。 して、その括らぬ手段の最もたるものが、ここに来て、大きく動いた。セイバーである。 ――― 今この瞬間こそが、現しき世の生死を分かつ"機"である。 囁いたのは直感。考える時間さえ惜しむように、彼女は即座に行動していた。 唐突に現れた暗殺者に、一瞬、 バーサーカーは気取られ、そこに決定的な「隙」が生まれた。 これを見逃すようでは、戦士として無能どころか、不能の謗りを受けたとしても致し方無し。 魔力を全開に迸らせ、文字通り、セイバーは翔んだ。 数十尺の距離を一息で、身を弾丸に窶し疾駆する。 滾る魔力の後押しを受けた必殺の斬撃を――― セイバーは怒涛と巨人に叩き下ろした。 ――― 手応えあり。 戦場で幾度も触れた破壊の感触が剣を通して、その小さき手のひらに伝った。 同時に、重油の如き、或いは熔けた鉛を思わせる血が噴出する。 人に在らず、英霊たるサーヴァントを確実に葬るには、首を刎ねるか、心臓を潰すのが常套手。 今は後者。セイバーの長剣は間違いなく”急所”に達していた。 … ……ぐらり。 あれほど頑強で、地に根を張る如く不動であったバーサーカーが揺らぎ、膝を落とした。 意味するところは即ち、敗北。彼は死んでいた。即死だった。 重力に引きずられて地に崩れる、その音で我に返り、最初に声を発したのは士郎である。 「――― やった、のか……?」 過程を思えば「信じられぬ」との当たり前の感想が先立ち、我知らず語尾は疑問符となった。 だが、目で見たものに偽りはない。バーサーカーは、たしかに敗北していた。 その事実に、麻痺る思考が表すべき情を探す。 死に伏した巨人への悼み、或いはそれを成し遂げた少女への賞賛か ――― 語彙は縦横に巡った。 と、遅れて我に返った凛が動き出す。 「セイバー!」 彼女は、巨人殺しを成し遂げた自らの従者の元へ駆け寄るべく、走った。 分をわきまえ、剣戟飛び混じる戦地の渦中には決して近づかなかった凛が、近づくということ。 加え、セイバーもそれを引き止めなかった。 つまり、終わったのだ。少なくとも二人はそう判断していると見て相違ない。士郎も凛の後を追った。 「――― さて、どうする? 貴方のバーサーカーは敗れたわ。見ての通り、戦闘不能よ」 対峙するは自軍の二人ではなく、残されたイリヤスフィール。 入り混じるのは勝者の矜持と敗者への憐憫。 語調は冷徹な魔術師そのものを繕い、らしく凛は立ち尽くす少女へ問い掛けた。 「――― でも、サーヴァントの敗北がイコール、マスターの脱落というわけじゃない。令呪があるかぎり、再契約すれば何度でも復帰できる。 悪いけど、このまま黙って見逃す、ってわけにはいかないわよね……」 「―――っ! と、遠坂、まさか―――」 ざらつく嫌な疑心が士郎の脳裏に過ぎる。 ―――だから、殺すのか、と。 偽善を振り回すつもりは毛頭ないが、簡単に割り切れるほど士郎は聡くない。 見習い以下とはいえ、士郎は義父から魔術を学んでおり、魔術師というのがどんな人種なのかも聞き及んでいる。 どんな願いも叶える聖杯なんてものが実在するなら―――たしかに彼らは殺し合うだろう。 事実、凛は士郎に聖杯戦争のことを説明した際、脅し半分にしろ、それが「殺し合い」であることを説いていた。 争うのではなく、殺し合う。魔術師ならばそうするし、また、そうなる覚悟も出来ている、と。 しかし、だからと言って殺人を見過ごせるかというと、それはまた別問題だった。 説得が何処まで通じるか―――たぶん暖簾に腕押しだろうと思いつつも、士郎は口を開く。 「あ、あのさ―――」 と、言い掛けた矢先、凛が唐突に首だけを回し、士郎を見た。 「バカねぇ、何も命まで獲ろうっていうんじゃないわよ。但し―――」 再びくるりとイリヤに向き直る。 「―――但し、今すぐ令呪は放棄してもらうわ。そうしたら見逃してあげる」 もし、拒否したらどうなるのだろう、と、士郎はつい余計なことまで考えてしまう。 ふとセイバーの姿が目についた。 彼女は、急ぎ、剣を引き抜いており、構えてこそいなかったが、両手でしっかりと柄を握っていた。 風は既に戻ってきていて、刀身は掻き消えている。 考えたくはないが、それが「もし」の答えであると想像するに難しくはない。 「――――――」 イリヤは応じず、また拒むそぶりも見せずに、無言だった。 顔を伏せ、肩を震わせている。 バーサーカーとイリヤの絆がどのようなものであったか知る由もなかったが、決して無碍な関係ではなかっただろう。 まだろくに会話することすらままならない士郎側に比べ、築いた時間が圧倒的に違う。 士郎は泣いているのだと思った。 何か優しい理屈を、諭す甘言を声にしようと、手を伸ばしたそのとき、 ――その異状に、彼はいまさら気付いた。 気づく。イリヤの顔に奇怪な文様が浮き出ていた。 いや、文様は顔だけでなく全身にびっしりと張り巡らされていて、服の上からでもわかるぐらい強く瞬いている。 それは、令呪か魔術刻印、或いはその両方を満たすべく刻まれた聖痕。 イリヤの肩が震えていたのは泣いていたからではない。 堪え切れぬ愉悦に、体が反応しただけの話。彼女は笑っていた。 「さすがはセイバーね。まさか、バーサーカーが"一回"殺されるなんて思わなかったわ」 「――いっかい?」 疑問に思ったとして、無理もない。イリヤの言葉はおかしい。 殺す殺されるなんてものは、普通「一回」などと指折り数えられるものではない。はずなのだが、 「ええ、まだ、たったの"一回"。バーサーカーはね、十二回殺されなきゃ死ねない体なんだから」 「――――うそ」 その言葉の意味を、なぞるようにバーサーカーが応えた。 イリヤと繋がるラインを通して注がれた魔力によって、彫像のように固まり晒されていた躯が微細に振動する。 復活の予兆。在り得ぬはずの奇跡。 だが、奇跡そのものを体現するサーヴァントが相手では、含まれる「不可能」の意味合いは空しく灰燼す。 「――――くっ……! まさか、バーサーカーの宝具って……」 「そ、あなたが考えてる通りのものよ。バーサーカーは肉体そのものが宝具なの。 ギリシアの英雄ヘラクレスが乗り越えた、十二の難行のことは知ってるでしょ? ヘラクレスはその褒美に不死を得た。だから、自分が乗り越えた試練のぶんだけ生き返ってしまう。 それが、わたしのバーサーカーの宝具『十二の試練』よ」 「蘇生魔術の重ねがけ――――」 バーサーカーの真名はヘラクレス。 だが、その宝具となるべきヒドラの弓を携えておらず、持っていたのは岩を砕いた斧剣だけ。 とすれば、残り、肉体そのものが宝具あるとするのは、考えられる話だった。 生前の軌跡を辿れば行き着く、その効果も。 「油断したわね、リン。あなたはすぐに逃げるべきだったのよ」 少女が告げる。 「でも、もう手遅れ――――狂いなさい、バーサーカー」 重く大地に根ざしていた巨躯が目を覚ました。 脈動する。開眼する。狂気に侵食された双眸に光が灯り、素気無く威勢を周囲に放つ。 危険を直感したセイバーが、庇うように凛の前に出た。 「あと十一回……」 ぐっと凛は歯を噛む。 あれだけ苦労した巨人殺しを、あと十一回繰り返さなければ終わらないのだという。 その数字の響き、なんと絶望的なことか。 「まだまだこれからよ。もう少し愉しませてもらうね」 と―――― 「……いヤ、こ、レ…デ、終わリ、、ダ……」 声。弦楽器を組み合わせ、無理やり言葉に似せたような、拙い雑音。 何故か、バーサーカーの巨躯の背後、足元から聞こえる。 と、月を背負う狂戦士が落とした影が、ゆらりと持ち上がった。 「――――えっ?」 士郎と凛が共に驚きの声を上げた。セイバーは眉を寄せ、咄嗟に身構える。 不意を突くのが暗殺者なら、それは極み。漏れた短音は賞賛と呼ばれるべきものに近い。 闇に潜み、全員の死角になっていたこの位置に、アサシンは隠れていた。 魔力が猛る。 周囲の空気が死に穢れ、代わり、凍てつく魔力が黒いサーヴァントのもとへ集う。 黒衣が翻った。 波打つ闇が割れ、天を突いたのは槍。槍と誤認するぐらいに細く、長く伸びた黒い腕。 折り曲げていた状態で縛りつけていた包帯が解かれ、長さが倍化する。 宝具の真名が開放された。 「――― 狙う―――振り上げた異形の腕が空を切り、呪詛を生みながら目標へ、 ―――翼をはためかせるように五指が開き、 イリヤスフィール。 バーサーカーのマスターである冬の少女を―――捕らえた。 「あ、ぐ――」 胸を押さえ、イリヤが呻く。 外傷は無い。それどころか、彼女には触れられたという感覚さえ無かった。 なのに心が軋むのは、たぶん、ソレを視たから。 とくんとくん…… 古来より人間の 唯一であるはずの器官が存在する矛盾。正しくはエーテル塊を用いて作り上げた贋物である。 だが、イリヤが手をかざした胸の下にある"本物"と、それは完璧に同期し、動悸する。 アサシンの腕は"心臓"を掴んでいた。 『 悪性の精霊・シャイターンの呪いの腕は殺害対象を解析し、鏡に映した本物と影響し合う二重存在を投影する。 そして、生み出した贋物を潰すことで、共鳴する本物を殺害するのである。 如何に堅牢な鎧で守られようとも、触れず、飛び越える呪いの前では意味をなさない。 手段は回りくどくとも、必殺・即死効果を映す、まさに暗殺に適した宝具だった。 して ―――、擬似心臓を掴み上げる意味は、何も潰すためだけにあるものではない。 「が――」 アサシンは、髑髏面の下部を覆う布に手をかけ、除けた。 僅かに上方へ傾けて、真っ暗な口蓋を開く。 黒い右手の上で脈打つ薄桃色の秘肉をその部分へ運び―――呑み込んだ。 そして、 ゆっくりと、 糸が切れたようにイリヤは崩れた。 沈黙―――― 例え猟奇に馴れた者でも、生理的嫌悪が先立つおぞましき光景だった。 だが、それは儀式。他者の心臓を媒介することで楔を打ち込み、無個の魂に色を付けるための行為である。 好き嫌いに関係なく、ただ必要だったから心臓を取り込んだ。 喉奥を過ぎてから一度黒衣の下で何かがぞろりと脈打ち、変体は完了した。 喉の調子を確かめるように吃音を混ぜながらハサンが言う。 「―――ふむ。ようやく、まともに喋れるようになったようだな。幾分、違和感はあるが―――それも直に馴染む」 そう。言った。これまでのような無機質な合成音ではなく、アサシンは知性ある言葉を口にしている。 抑揚の幅は狭く、言葉選びも昔語り的だが、質はステレオタイプの暗殺者の容貌にそぐわぬ甘さを孕んでいた。 その声に、ついで過ぎる既視感に、聞き覚えがあると感じるのは、決して気のせいではない。 "……ああ、わかってしまう ―――" おそるおそる倒れ伏した少女に近づき、凛が手を伸ばそうとしている。士郎はその様を呆然と見つめていた。 手ずから触れずとも彼にはわかる。わかってしまう。 加害者とラインが繋がっているからとか、そういったものとは無関係に、単純な事実として受け止めている。 ……彼女は■んだのだ。 アサシンのクラスの二つ名は"マスター殺し"。 何ということはない。アサシンは最初からイリヤだけを狙っていたのだ。 バーサーカーがわざわざ斧剣を使って短剣を弾いていたのも、これが理由である。 そして、狂戦士が一度死に、蘇生するまでの僅かな時間。絶対の隙が生まれたことで、それは成就する。 誤魔化すことはできない。未練を断つためにと、訊く。 「―――何を……したんだ?」 主の問いに、ハサンは律儀に返す。 「わたしの宝具で心臓を奪った。つまり―――」 在り得なかった夢がある。 聖杯を手にするのはアインツベルンの宿業。イリヤはそのために作られ、生かされてきた人形だった。 その人形が胸に宿していた唯一の感情が復讐である。 しかし、生きる糧としていた憎悪は、真実、家族というものへの郷愁、憧れへの裏返しでもあった。 期待していたのかもしれない。 自分と母を捨てた父親。その父親の愛情を受けて育った、兄であり弟でもある少年。 ほんの少し運命が違っていたら、家族であったかもしれない人が、これからは本当の家族になってくれるのではないか。 そんなささやかな願いを、夢にみることさえできないまま、 「―――バーサーカーのマスターは、死んだ」 口にしてしまうと思いのほか呆気ない。 「――――そうか」 一言。それ以外に言葉がなかった。 後悔と焦燥に胸を焦がしつつも、一方で士郎は冷静だった。 過去の赤い記憶とも重なり、人間とは斯くも簡単に死ぬものなのだ、と思い巡らす。 正義の味方に成らんとする衛宮士郎が、年端もいかぬ少女を結果的に見殺しにした。 直接手を汚したわけではないが、罪科は同義か。 一旦、そこで思考を切る。 意味を考えるのは後回しにして、呼吸を整えた。 理由はハサンが伝える。 「魔術師殿、お下がりを……。いまだ気を緩めること無きに」 士郎は気づいていた。 主は落つも、バーサーカーはまだ沈んでいない。 「■■■■■■■■■■■■■■――――――――!!!!」 強烈な咆哮が轟く。 直後には鼓膜に失調をきたすほど凄まじく、びりびりと世界が揺れた。 イリヤの死を誰よりも残酷に実感するのはこの従者だった。 イリヤがバーサーカーを拠りどころにしていたように、彼の方もまた少女を拠りどころにしていた。 それが、途絶えた。 命が消えた。 守るべき少女を守れなかった。 絶望。 怒号は惜別の慟哭に他ならず、ゆえに哀しい。 「■■■■■■■■■■■■■■――――――――!!!!」 ――――狂う。 彼の主が彼に託した、最後の命令を思い出す。 もはや、その強さに何の価値も意味もない。彼のすべてが否定されたに等しい。 イリヤの示唆がなくとも、そうしていただろう。 彼は初めて、本当に、狂った。 「やはり来るか、狂戦士――――」 バーサーカーは蘇生後再生半ばの体で、強引に身を捩った。 起き上がる巨躯が見据えているのはこの主従、どちらか或いは両方。 ぎりぎりと鋼の肉体を引き絞り、これを開放する。 剣の形をした岩塊を持ち上げた。 「■■■■■■■■■■■■■■――――――――!!!!」 吼える。彼にはもう言葉は聞こえていない。聞き入れるだけの心がない。 対照的に、憤るでも哀れむでもなく怨嗟を受け止め、ハサンは淡々としている。 「――――貴殿の敗北の理由は二つある。 一つはサーヴァント二体を同時に相手にしたこと。強者と言えど、二兎を追えば必ず何処かに不足が生じる」 目標は定まった。 その声で喋るな、と、バーサーカーは怒号と共に、斧剣の一撃を叩き落とした。 士郎に攻撃を向かわせぬための意図的な挑発だが、決して嘘を吐いたわけではない。その証拠に、 「せいっ!」 瞬時、セイバーが入れ替わりに前に出て、一刀を見舞う。 差し出されたバーサーカーの腕が彼女の不可視の剣によって断たれた。 耳障りな音を立てて跳ね飛ばされた右腕は、地に落ちる寸前で塵と消えた。 『 幾らセイバーの聖剣でも、最速でなければ薄皮に線を引く程度。であるのに、牽制の斬撃で腕を断ち切った。 これが意味するところは、肉体の崩壊に宝具の効果もまた、引きずられているということ。 屈強な鋼の肉体が、ざらざらと風化していく。 ただ存在しているだけで、膨大な魔力を消費するバーサーカー。 供給元のイリヤが死んだ時点で、聖杯の助けもなく召喚された彼がこうなることは、自明の理である。 それでも突進を止めぬのは、やはり意地か。 後数分、もしかすれば一分と持たぬ体で、振るう斧剣に全霊を込める。 それだけの時間があれば、一糸報いることが可能か。 だが、暗殺者はそれすら許さない。 「――――っ!」 後方に跳躍して初撃をかわしたハサンが、弾丸のような短剣を投げた。 短剣は正確にバーサーカーの眼球を射抜いていた。 その僅かな隙を縫って、狙撃した目の側からハサンは狂戦士の背後に回り込む。 「貴殿の敗北の理由、もう一つは――――」 再び投擲。 「――――わたしを小物と侮ったことだ」 放たれた四本の短剣が音もなく空を切り、狂戦士を襲う。 引き裂いたのは両膝、両足首の腱。 立とうとする意思とは無関係に、重力に引きずらて巨体が落ちた。無防備な体をセイバーの前に晒す。 剣閃が走った。それが最期だった。 「■■■■■■■■■■■■■■――――――――!!!!」 断末魔が上がる。 セイバーの渾身の一撃は抜け切り、バーサーカーを真二つに両断していた。 思えば、セイバーが風を放ったときに――――、 いや、アサシンを取るに足らぬ存在と目を離した段階で、勝負は決していたか。 暗殺者とは蜘蛛。 罠に誘い込み、最短最良の方法で得物を仕留める。 ごとんとバーサーカーの体はアスファルトの上に転がった。 倒れこんだまま動かない。奇跡は起こらない。バーサーカーであったものが加速度的に大気へ還って行く。 物言わぬ彼が、そのとき、何を考えていたのかは誰も知る由はない。 ただ、目が合う。 隻眼は深い憎悪と、悲哀を湛えていた。 その背に背負うものは果てなく重く、立ちはだかる壁は上れぬほど高い。 士郎はその瞳を、生涯忘れることはないだろうと思う。 ―――風は止んだ。 「―――さて、今更ではあるが、これもけじめ」 バーサーカーを見送った後、ハサンは士郎に正対する。 「汝が我が主か―――」 人の頭骨を模した白面が、闇に浮かんでいる。 髑髏が微かに、注視しなければそれとわからぬぐらいに小さく、下を向いた。 つられて士郎が視線を落とすと、そこには左手の甲ある。 かつては痣にしか見えなかったものが、 明らかに何かの意図を感じさせる文様に変化し、あまつさえ薄く光を放っていた。 それは、凛からの説明の中で、彼女が「令呪」と呼んでいたもの。 おそらく両者が見ているものは同じ。ソレは告げる。 「―――諾。わたしはサーヴァント・アサシン。 今この時より、我が身は貴方の刃となり、貴方の敵へ速やかな死を手向けよう」 ここに、契約は成立した。 |