―――これが、死。

 破壊の爪跡は凄まじいの一言に尽きる。
 あらゆるものが壊れていた。
 例えば電柱とか、信号とか、街灯とか、道路標識とか、路駐車両とか、街路樹とか、人間とか―――
 ただ、月明かりだけが無傷であるように見える。

 喩えるならそれは、死体安置所の静けさだった。










   Faceless token.     04 / Philosophy









「何をしているのですか、アサシン」


 その中で動くものがひとつ。瓦礫の隙間を縫って、ゆらゆらと彷徨い歩く黒衣の異形がある。
 その影に声をかけたのは、碧眼金髪の剣の英霊。
 黒いサーヴァントからの返答はなかった。
 聞こえていないのではなく、ハサンは無視を決め込んでいた。
 成り行きで共闘はしたものの、本来、何時かは剣を交えなければならない敵同士。
 馴れ合うつもりなど毛頭ないとハサン。
 沈黙が疑惑を産み落とした。セイバーは考える―――


"次に―――いや、既にアサシンは凛の命を狙っているかもしれない……"


 アサシンというクラスの在り様が"マスター殺し"であることを、彼女は伝聞ではなく、その目でしかと確認していた。
 凛は優秀な魔術師であるが、あくまで人間。サーヴァントには勝てない。
 それも、相手は殺人に特化した「アサシン」であり、ある意味でバーサーカー以上に危険な存在である。
 これを防ぐのは自分の役目。ゆえに、


「事の次第によっては、私にも考えがありますが―――」


 と、言葉を切り、セイバーは脅迫めいた言葉を黒衣の人影に投げた。
 さすがのハサンも作業する手を休め、彼女の方へ向き直る。不穏な空気を呼んでしまったらしい。
 始終、不躾で高圧的な威勢を向けられては敵わぬとばかりに、渋々と口を開いた。


「―――見ての通り、短剣<ダーク>は使い捨てというわけにはいかない故、回収してる。
 ついでに言うと、今は戦うつもりはない」


 何も隠すようなことでもない、と、ハサンは正直に説明する。
 移動しては身体を折り、自らが投擲した短剣のひとつひとつを丁寧に拾い上げ、懐へしまう、その繰り返しをしていた。
 宝具とは異なり、ハサンの短剣は無くせば数を減らす代物である。
 単に避けられぬ事後処理をしているだけであり、セイバーが考えているような欺騙は欠片もなかった。

 その光景は、スマートな暗殺者のイメージを大切にするなら、決して見てはいけない地味な姿―――
 であるから、この場での戦闘続行の意思が無いことの証と取れるのだが、


「私にそれを信用しろと?」

 静かだが、必要以上に硬く、鋭い語調でセイバーは言う。
 彼女はまだ疑っていた。
 行動そのものに関心があるわけではなく、後者の真意を訊ねている。


「信じられぬか?―――まあ、無理もない。
 そうだな……、正直に言えば、真っ当な英霊である貴殿に、力押しで立ち向かえる力量は、今の私には無い。
 要するに、勝てぬから戦わぬ。理由としてはこれで十分だと思うが?」


「いえ、それは貴方の本心ではないでしょう。
 事実、貴方はバーサーカーを倒した。私も戦いましたが、結果的には利用されただけに等しい。
 力の優劣だけが勝敗を分けるものでないのは、私だって分かる。
 たとえ剣の英霊たるこの身の助力がなくても貴方は何とかした筈であり、即ち、それが貴方の強さだ」

「―――それは買い被り過ぎというものだよ。
 戦うからには負けぬつもりであるが、いつもそう、うまくいくとは限らない。確率が低ければ、素直に主を連れて逃げる。
 わたしは臆病なのでな。敢えて、自分から危険に飛び込むような真似はしない」

「バーサーカーを前にして、震えも高揚もしない者が”臆病”だというのですか?
 そんな心にも無いことを言うから、油断できないのです!」

「―――ふむ」



 最後の一本を回収し終えたハサンは左手を顎に添え、これでは説得できぬかと、しばし考える。
 セイバーが疑うのも、もっともなことだった。
 献身者<フェダーイー>は薬で恐怖を消すが、 ハサンとなった身は、とうにその段階を過ぎている。
 怖れというものが分からない。感じないのではなくて、無かった。
 セイバーほどの達人が相手では、どうやら誤魔化せなかったらしい。

―――ならば、どうしたものか……

 ハサンは、嘘偽り無く、今はセイバーと事を構えたくないと純粋に思っている。
 士郎的感情移入からでなく、損得を見越しているがゆえ。
 ハサンの目算では、バーサーカー亡き今、この聖杯戦争における最強のカードは、セイバーとその魔術師だと踏んでいた。
 いつかは戦わねばならない相手とはいえ、この場に限らず、なるべく後回しにしたい。
 少なくとも、ハサン自身が力をつけるか、セイバーが疲労弱体するまで。
 つまり、語った言葉は少ないながらも、ハサンはセイバーに本当に正直な意を口にしていたわけである。
 信用されないのは、ひとえに普段の行いの所為だろう。これで通じないというなら、会話の方向性を曲げるより他ない。



「―――では、逆に訊ねるが、どうして貴殿は戦わぬ?」

 と、訊いた。

「現状、素人目に見ても、剣の英霊たる貴殿の方が有利なはず。
 次に回せば、日常から隙を伺うわたしに”機”を与えることになる。倒すなら今ではないのか?」


「それは―――」

 セイバーは答えに詰まらせた。
 冷静に考えれば、ハサンが述懐した通り、戦うなら今であるはずだった。
 アサシンが得意とするのは、文字通りの暗殺で、ここで見逃してしまうと四六時中、周囲を監視するはめに成りかねない。
 セイバーとしても、それは望む事態ではなかった。
 なのに、彼女は出来ればこの争いを避けたいと思っている。
 その矛盾。
 自分ことであるのに、うまく説明することができない。


「わからぬのなら、わたしが代わりに答えよう」

 ハサンが告げる。

「それは、我らが戦うことを、わたしの主が望まぬからだ―――魔術師殿、そうであるな?」


 何とは無しに二人の会話を聞いていた少年―――衛宮士郎。
 視線を注がれることで、今更ながら、ハサンが言う「魔術師殿」が自分を指しているものであることに気づいた。
 唐突に会話の矛先が向けられ、慌てる。
 だが、次の瞬間には、はっきりと自分の意見を口にした。


「ああ―――うん。出来れば二人には戦って欲しくない。仲良くしてくれないかな?」


 と、士郎はハサンが予想した通りの答えを、二人を見渡し、訊く。



「わたしの方は異存ない。優先順位は心得ている。
 勝てぬから戦わないのも本心であるが、それを抜きにしても、主の命には従うまで」

 淡々と満足そうにハサンは頷いた。

「助かるよ。で、セイバーは?」

「わ、私は―――」

 このように言われて、無碍に拒絶できるわけがない。
 ふうと大きく息を吐き、セイバーは不可視の剣を下ろす。




「―――いいでしょう。アサシンはともかく、貴方は信用できる」

「ありがとう、セイバー」

「いえ、礼には及びません。先程の借りもあります。
 サーヴァントとしてではなく、一人の騎士として、この場を休戦とすることを誓いましょう」

「なにも、そこまで大袈裟な……。助けてもらったのはお互い様だし―――」

 むしろ、自分は殆ど後ろで見ていただけだったと士郎は言うが、

「いけません。私はサーヴァント。戦うのが仕事であり、そうするだけの力があるから当然のことをしたまで。
 命を懸けて誰かを守ろうという行為は、貴方が想像している以上に重い意味があるのです。
 場合によっては、助けられた側、そして助けた側も、以後の生涯を決定付けるぐらいの責務を負う。軽々しく扱っていいものではありません」

「う……」

 セイバーの弁に、士郎は気圧される。彼女の言葉は不思議な説得力があった。
 ステータスを見る機会があったなら、脳裏に「カリスマ:A」というのが燦然と輝くだろう。
 何より、士郎こそが、誰かに助けられたことで生き方を選んだ見本ようなものでるだけに、返す言が見つからなかった。



「頑固で、素直ではないのだな、騎士の姫君は」

 そんな二人のやりとりを聞いていたハサンが、横から茶々を入れた。
 わざわざ"姫君"の部分だけを強調して言う。


「……っ! アサシン、貴方は私のことを知っているのですか?」

「さて、な―――だが、ある程度は見ているだけでおよそ察しがつく。
 その傲慢で後ろを顧みない態度、何処ぞの王族以外に在り得ぬだろう」

 そんな態度では、セイバーはイエスと答えているのも同然だろう。

「くっ―――やはり、貴方は油断できない」

「単に、貴殿が隙だらけなだけだ」

 ハサンは仮面の奥でくすくすと笑う。
 黒衣に覆われた容貌と淡々とした口調の所為で通常は意識し難いが、こうした態度にはイリヤの影が見え隠れする。
 困ったことに、他人を怒らせることに関しては、きわめて効果的だった。

「それは、私への侮辱ですか?」

「否。しかし、その様子だと自覚はあるようだな」

「なるほど……貴方には礼儀が欠けているということは、よくわかりました」

 セイバーが眉を寄せる。我知らず、聖剣の柄を握る手に力がこもった。


「まてまて! 休戦だろ、休戦っ! 誓いはどうした?!」


 不穏な空気を感じ取った士郎が、間に割って入った。

「無論、そのつもりであるが、あちらがその気なら致し方あるまい。
 冷静さを欠いた者を制するのは容易いな。魔術師殿、セイバーを倒すなら今であるぞ?」


「いや、だからさ、頼むからアサシンも挑発しないでくれ……!」


 ますます険しくなるセイバーの顔を見て、士郎が叫ぶ。
 生真面目なセイバーと、表情が隠れているせいで、何を考えているのかさっぱりわからないアサシン。
 果たして、何処までが本気なのか。
 自分だけでは抑えきれない、と、そこで士郎は、セイバーのマスターである凛のことを思い出す。



「そうだ。遠坂からも何か言ってやってくれ――――――って、遠坂?」


 そういえば、凛は先程からまったく会話に参加していない。様子がおかしい。

「―――遠坂?」

 士郎はそっと背後から近づき、もう一度声をかける。
 凛は肩を震わせていた。
 何かに耐えるようように、硬く拳が握り締められていた。しばらくして、


「―――えみや、くん?」

 と、凛は言った。ようやく返ってきた言葉も彼女らしくなく、何処か弱々しい。
 凛は普段通りの彼を見て、言うつもりはなかった台詞が、思わず口を次いで出てしまう。


「あなた、大丈夫なの?」


 責めているような、硬質な声。
 凛の視線の先にあるものを知覚し、士郎は意味を悟る。


「ああ―――俺は、その、馴れているから……」


 イリヤがいる。
 そこには、かつてイリヤスフィールと名乗った少女の亡骸があった。
 外傷はなく、綺麗なまま。触れるとまだ温かく、柔らかい。
 だが、少女は完全に死んでいる……

 犠牲にしてしまった。
 全滅という最悪の結果は回避できたが、それは最良の結果ではなかった。
 誰もが幸せでいられる世界を願いながら、すべてを救えぬという残酷な現実が、形を成してそこに横たわっていた。
 自らが手を下したのも同然。
 仕方ないと他の誰かが許しても、士郎自身が贖罪を認めないでいる。
 僅かばかりでも、勝利の昂揚があったこと、それに流された、己の不甲斐なさを士郎は恥じた。
 して、内容こそ違えど、凛もまたを同様―――



「―――リン」

「……ええ、大丈夫よ」


 気遣うセイバーに一言、声をかけて、それから凛は身を起こした。

 死んだ人間 ――― それも、誰かの手によって殺され、死んだ人間を凛は初めて見る。
 これが戦争であることは理解していた。
 戦えば、どちらかがが死ぬ。それはじゅうぶん承知していることで、魔術師であるのだから向こうもわかっている筈。やましいところはない。
 だが、実際に目のあたりにしたことの衝撃で、瞬間、愕然と凛は固まってしまった。
 王として先頭に立ち、数多の戦場を駆けたセイバー。
 そもそもが加害者であり、殺人を生業としていたアサシン。
 それに士郎、と、「死」というものに遠く、ある意味で一般人にいちばん近かったのは凛であるかもしれない。
 頭ではわかっていても、心がついていかなかった。

 不甲斐ないと思う。
 血の匂いがしない魔術師など、魔術師ではない。実際、その覚悟が足りていなかったことに気づかされた。
 いついかなるときでも優雅に、と、遠坂の家訓を繰り返し喉奥で唱え、自己暗示を刻み付ける。
 アインツベルンの名は知っていても、死んだ少女個人に寄せる私情はない。
 この程度にいちいち動揺していて、何が魔術師か。
 士郎が正義の味方を目指すのと同様に、凛にも完璧な魔術師にならんとする強迫観念があった。
 自身が心の贅肉と呼ぶもの―――
 深く息を吸って、吐き出すのと一緒にそれと訣別する。


「大丈夫よ、セイバー」

 もう一度言う。次の瞬間にはもう、凛は魔術師然とした顔に戻っていた。


「――― しっかし、ほんと、よく倒せたわね。二対一だったとはいえ、あんな規格外の化け物に」

 周囲を見渡し、凛は呆れたように吐き出す態度を演じて見せた。
 外に注意を向けて感情を追い出し、代わりに現実を取り込んで思考を切り替える。
 そんな凛の心の動きに気づくはずもない士郎も、それに同意した。

 あらためて確認するまでもなく、縦横に破壊尽くされた路上は嵐が通り過ぎたかのよう。
 神秘の隠匿を尊ぶのが魔術師であるのに、大丈夫なのかと士郎は疑問に思うが、

「そのあたりは、大丈夫じゃないかな。
 幸い民間への人的被害は出ていないし、後始末は誰か―――たぶん協会がやってくれると思う」

「えっ? 聖杯戦争のこと、協会は知っているのか?」

 士郎の間の抜けた質問に、はあと凛は大きな溜息を吐いた。

「んなの、当たり前じゃない! モグリでこんな大規模なイベント、出来るわけないでしょ。
 いい? サーヴァント一体にとってみても、お釣りがくるぐらいの最大級の神秘なのよ。
 基本的に干渉はしてこないけど、しっかりモニタリングはされてるわ。
 十年前の聖杯戦争の時もかなり被害が出たけど、結局それが聖杯戦争だったことは表に漏れていない。
 つまり、そういうことよ」

「十年前?」

「そ。十年前の大火災、覚えていない? あれ、前回の聖杯戦争のとばっちりよ」

 聖杯戦争が前にもあった?―――いや、考えるべき箇所はそこじゃない。
 忘れない、忘れることができるはずがなかった。当の士郎こそが、その大火災の被害者であり、唯一の生き残り。
 あれが聖杯戦争の結果によるものであるというならば、彼は―――



「ともかく、神秘の隠匿についてはそういうことだから、大丈夫よ。でも―――」

 と、そこで、凛は目をすっと細める。

「―――でも、だからといって、民間人を犠牲にするような外道な真似はしないでよね。
 協会が許しても、私が絶対に許さないから!」

「そ、そんなことするわけないだろ!」

 語調を強くして、士郎は否定した。

「ま、衛宮君ならそういうと思ったけどね」

 同世代の少年、場合によっては少女をも魅了する作り笑顔を浮かべて、凛は言った。
 但し、サーヴァントの方はわからないけど、と、これは声に出さず、内心で呟く。


 アサシンは信用できない。
 この点に関しては、彼女の従者であるセイバーと同意見ないし、それ以上の厳しい見方を彼女はしていた。
 先入観かもしれないが、暗殺者であるという時点で、人の道徳観を期待することはできない。
 アサシンはそういう存在であるのだ。最悪の想定は必要だった。
 自分が狙われるのもさることながら、より利己的な手段に出る可能性についても凛は考える。
 一般人を巻き添えにしたり、人質を取ったりするのは、それはそれで許せることではないが、まだ戦争の範疇にある行動である。
 前回勝ち残った魔術師は、そういう者であるらしい。

 で、凛が真に危惧するのは、アサシンがマスターを裏切ることに躊躇わないのではないかということ。
 学内でも「お人良し」の二つ名で揶揄される士郎であるから、暗殺者と意見が対立してもおかしくない。
 裏切りとは即ち殺害。
 そんな危険人物を彼は身近に置くことになる。
 マスターだった時点で士郎は一般人ではないが、あまりの無識ぶりを知る凛には、似たようなものだった。
 場合によっては、自分が士郎の身を保護することさえ視野に入れている。
 そして、自分がいるうちに、と、彼女には確かめなくてはならないことがあった。


「―――衛宮君、ひとつだけ訊ねたいことがあるんだけど、いいかしら?」

 凛は敢えて周囲にも聞かせるように、大きめのはっきりとした口調で士郎に訊いた。
 ああ、いいぞ、と、快諾があったところで、彼女は言う。



「あなたは、聖杯戦争をどうするつもり? 戦うの?」


 毅然と、核心に届く問いを凛は発した。
 士郎ならば「戦わない」を選択する可能性もある。
 何処ぞの平和主義者と同じ価値観であるとは思い難いが、自己犠牲が強い傾向があるのは先の行動で実証されていた。
 もしそうなら、少々厄介なことになる。
 サーヴァントは使い魔に分類されているものの、完全絶対服従な奴隷ではない。
 言わば、目的を一致する同士であり、従うのはあくまで聖杯のため。
 戦わないマスターは、サーヴァントにとっては邪魔な存在にしか過ぎなかった。
 故に、これだけは訊ねなくてはならない。


「俺は―――」


 士郎は目を閉じた。
 答えは決まっている。後は決意するだけだった。






「―――俺は、戦う。もう関わってしまった以上、後には引けない」




 次に瞼を上げた時、士郎は凛から視線をそらさず、はっきりとそう宣言した。



「そう……、だったら、私たちこれから敵同士になるわね」


 凛は「敵同士」などと物騒な言葉を使いながらも、柔らかく士郎へ微笑み返した。
 何処か安堵したような、それでいて少し寂しげな笑み。


「ああ、そうなるかな……。でも、出来れば遠坂とは戦いたくない。
 俺が戦うのは、聖杯のためじゃない。こんな馬鹿げた殺し合いを終わらせるために、俺は戦う。
 遠坂にだけじゃなく、出来れば、誰も傷つけたくないんだ」

 と、士郎はそんな凛の心情を裏切って、安穏とした自分の価値観を口にした。


「……あんたねえ、私も含め、みんな本気で戦うのよ。
 魔術師相手に、そんな青っちい倫理観を説いたところで、はいそうですかと見逃してくれるわけないじゃない。
 すぐに殺されてしまうわよ」

 こんなことだろうとは思ったが、実際に聞いて、凛は呆れる。
 厄介なのは、士郎は事態を軽視しているわけではなく、真剣にそのつもりであることだった。


 聖杯は願望器。が、士郎にはこれといって叶えたい即物的な望みはない。
 目の前でデタラメなサーヴァント同士の戦闘を見せ付けられ、なおかつ自分の命を後一歩で失いそうになる目にもあった。
 それでもなお、凛の話は雲を掴むような内容にしか思えない。
 世に存在することを知っているとはいえ、士郎本人の魔術は、とても「使える」とは言えないお粗末なもの。
 魔術師どころか、魔術使いですらなく、殆ど一般人と変わらぬ生活をしていた彼に、すべてを理解しろという方が難しい。
 したがって、勝者の報酬が、何でも願いを叶う聖杯と言われても、いまいちピンとこない。
 そうまでして叶えたい望みなどない―――と、そこに思索が至ったとき、士郎はある重要なことに気づいたのだ。
 自分の願いは何であったか、と。
 だったら……悩む必要などない。
 彼が望むのは、たったひとつだけ―――正義の味方になること。



「……わかっている。俺だって死ぬつもりは無いし、戦うからには生き残るつもりだ。
 それに、自分から討って出る覚悟だってある。
 ただ、それは敵を倒すのが目的じゃなく、犠牲になりそうな人たちを助けるためだ」



 繰り返し夢に見た赤い記憶が像に重なる。
 彼が「馴れている」ことの直接的理由である十年前の大火災。その凄惨な光景―――

 誰かに助けられた少年は、誰かを助ける生き方を選んだ。
 もちろん、殺し合うことに士郎は賛同しない。しかし、それは戦いを放棄するという意味と同義ではなかった。
 止めなくてはならない、災禍を。
 貫かなくてはならない、正義の味方であることを。
 戦場で、自分の命を捧げることによって誰かが助かるなら、間違いなく彼はその道を選ぶだろう。



「これは俺の我侭だってことは知っている。だけど、譲れない。
 こんなマスターで悪いんだけど、アサシンも俺のやり方に従ってくれないかな?」


 これは不味いかも、と凛は顔を顰めた。
 視線だけを動かして、ハサンを見る。相変わらず何を考えているのかわからないが、おそらく良くは思っていないだろう。
 だが―――、ハサンはあっさりと一言、




「了解した」


 と、言い淀むこと無く即答した。

「―――へ?」

 駆け引きも何もあったものでなく、拍子抜けした声が思わず凛から漏れた。
 ハサンと会話する気など、さらさら無かったはずであるのに、彼女は訊ねずにはいられない。

「極論を言えば、士郎は専守防衛に徹するって言ってるのよ。
 自分のことだからわかっているとは思うけど、アサシンの能力の半分、いや、十分の一も活かせないかもしれない。
 あんたは、それでいいの?」

「―――? それはわたしへの質問か?
 確かに不利な条件ではあるが、かといって敵であるセイバーのマスターから、そのような蔑みを受ける謂れは無い。要らぬお世話だ」

「蔑みって、あんた……」

 つれないハサンからの答え。
 ずれている。
 それでわかったことがあった。
 主に逆らわないというだけでなく、はじめからそういった発想自体がハサンの中に存在してしない。
 そんな柄でもないのに……いや、だからなのか。
 取り敢えず、自分のサーヴァントに襲われる理不尽な事態だけはなさそうだと凛は判断した。
 これ以上引きずるのは感情移入であるとして、思索の隅から外す。





「……まあ、いいわ ――― で、衛宮くんは、これからどうするつもり?」

 あらためて凛は士郎に訊いた。

「ん〜、正直、まだ混乱していて、まともに考えることができそうにない。
 用事があるわけでもないから、帰って寝て、具体的な今後の方針は明日以降に決めることにするよ」

「そうね。それがいいわ。立ち去るのは早い方がいい。
 あの子が張った人払いの結界はとっくに消えているし、うかうかしてると一般人と出くわしてしまう」

 周囲に気を配る。深夜であることも手伝って、人が来る様子はまるでないが、油断はできない。

「いくら隠蔽されるとはいえ、現行犯はさすがに不味いわ。ここで解散にしましょう」


 よくよく考えても見れば、士郎が現れたのは、決して狭くない範囲で張り巡らされた人払い結界の只中。
 つまり、本人は知らずとも、士郎が聖杯戦争の関係者であるのは自明の理だったと言える。
 あの時は、そんな単純なことさえ気づかぬほど冷静さを欠いていたのか、と、己の未熟さに凛は恥じ入るしかなかった。
 刮目しなくてはならない。後手に回るのはこれが最期、と気を振粛する。


「あなたがどう動くのか。これはあなた自身の問題だから、お互い敵同士であるわけだし、私はいちいち口出しするつもりはないわ。
 でも、戦うと決めたのなら、せめて、聖杯戦争に関する情報は、出来る限り把握しておきなさい。
 さっき私が教えたぶんの知識は、ほんの触りだけよ。あんたが知らなきゃならないことは、まだまだ山ほどあるから」

「遠坂は教えてくれないのか?」

 凛の助言が第三者的立場からのものであることに士郎は気づき、言う。


「―――あのね……、さっきも言ったけど、私たちは敵同士なのよ。
 共通の基礎知識ならともかく、私がアサシンの宝具のこととか、真名のことまで知ってるわけないし、知るわけにはいかないじゃない」

「真名って―――『アサシン』が本当の名前じゃないってことか? ひょっとして、セイバーも?」

 説明されていないのだから仕方ないとはいえ、こんなことさえ士郎は知らない。



「如何にも。アサシンという名称は、個々の性質に対応した聖杯戦争限定の役柄にしか過ぎぬ。
 固有名詞ということなら、わたしはかつて 『 ハサン・イブン・アル・サッバーハ 』 と呼ばれていた。
 真名に該当するのは、これであろう」


 マスター同士の会話。そこへ自分に関係ありそうな話題が出たことで、ハサンは口を挟む。
 ごく自然に、己の真名を台詞の中に混ぜた。
 語感で「中東辺りの人」程度にしか分からなかった士郎は、これという感想を持たなかった―――のだが、


「ん?―――遠坂?」


 凛は目を見開き、驚き固まっている。
 彼女だけではない。一歩退いて側に控えていたセイバーも、同様の表情をしていた。



「どうしたんだ? 二人とも……」


「どうやら両名は、わたしが真名を名乗ったので、驚いているようだな」

 相変わらず抑揚がない声で、何でもないことのようにハサンが応える。士郎は理由を訊ねた。


「魔術師殿、真名とは通常、秘せられるものであるのだ。
 サーヴァントとは過去の英霊であるから、名が分かれば、すぐに調べがつく。
 生前、何を考え、どう戦い、なぜ死んだのか―――これらを知られることは、弱点が晒されたのも同然。
 であるから、聖杯戦争にあっては、互いにクラス名で呼び合うのが慣習となっているようだ」

「なるほど……」


 自分たちのことであるのに他人行儀で呑気なこの主従の会話に触発されて、凛は思考停止の状態から却ってきた。


「―――あ、あんたらねえ……、危機感というものがないの? 私たちの前なのよ」

「知ってる。弱点が発覚するかもしれないんだろ?
 でも、それを説明した当の本人が名乗ったんだから問題ない―――だよな?」

 さっと、士郎はハサンを窺う。


「うむ。魔術師殿は知識こそ欠けているが、状況の分析に長けているようであるな。
 仕える身からすれば僥倖。
 その通り、我が名が外部に漏れても無問題であるが故、名乗った」

 微妙に胸をそらした感じがしなくもない仕草で、ハサンは二人を見る。
 どうにもこの中では立場が弱い自身の主が、予想外の現状把握力を見せたことを自慢している……のかもしれない。

「存命時でさえ個を持たぬ無貌の暗殺者であったからな、わたしは。
 調べてどうにかなるものでもない。
 それに、アサシンは常にハサンであった者が召還されるクラスでもある。
 早いか遅いかの違いだけで、其処な魔術師なら、何れ索り到達する情報だろう」

「あれ? ってことは、前も参戦したことがある?」

「そういえば、前回の聖杯戦争はアサシンもいました。前とは少々、感じが違うようですが……」

 セイバーも会話に参加してきた。
 アサシンらしさということでは、前回の自分のマスターの方が上かもしれない、と彼女は思い巡らす。


「いや、わたしは初めてだ。しかし、アサシンはハサンである」

 ハサンはよくわからないことを言った。

「―――?」

「つまり、ハサン・サッバーハは一人ではない、ということだ、魔術師殿。
 アサシン、ハシーシーン、ダーイ、フェダーイー、山の老人……
 これらは全てわたしを指して呼ぶ名であるが、わたしという個人を特定するものではない。
 ハサンも同じ。
 ハサンとは、誰でもない暗殺者に与えられた記号であるのだ」



「―――! そうか……あなたは本物の『アサシン』ってわけなのね……」


 山の老人という言葉が出たことで、凛は、ハサンが何者であるか、ようやく思い至った。

「暗殺者を指す"アサシン"なる普通名詞の由来が、わたしであることを本物というなら、たしかにそうなのだろう」

 否定する言葉は返ってこなかった。



 ハサン・サッバーハ。
 十世紀末の中東、シーア派イスラム原理主義ニザール派の創始者として、その名は歴史に刻まれている。
 俗にいうところの暗殺教団=アサシン教団とは、まさしく、このニザール派のことを指す。
 同派は自己の教義に反対し,迫害・圧迫を加えた体制側の指導者や敵対者に対する政治的対抗手段として暗殺を正当化した。
 犠牲となった要人は数知れず、セルジュク朝の宰相ニザーム=アル=ムルクをはじめ、アッバース朝カリフや多くの高宮がその手にかかっている。
 12、13世紀には十字軍の将兵の多くも犠牲になっており、イスラムの英雄サラディンさえも標的にした経歴があるほど。
 これにより政治能力、ひいては領土まで獲得したアサシン教団は、奇怪な体術と絶対の秘匿性を持って、数多の伝説を生み落とすこととなった。
 十字軍によってこの話は西欧にも伝えられ、マルコ=ポーロが『東方見聞録』でこのことを記述したのでいっそう名高くなった。
 暗殺者を意味する英語の普通名詞「アサシン」が、彼らへの蔑称である大麻吸引者<ハシーシーン>を語源とする逸話は、有名な話であろう。
 現在、彼らの直系の子弟は暗殺業を廃し、インドで世界でも1、2を争う大富豪となってしまっていて、かつての面影はない。
 だが、集団的テロリズムという種は、宗派を越えて現代の社会に影響を与え続けている。
 サーヴァントのハサンは創設者のハサンではなく、その名が与えられた、暗殺任務を行う献身者<フェダーイー>の一人であろう。
 そのフィダーイーは、現代のパレスチナ=ゲリラが名乗り、継承している。
 冷戦以後の最大の脅威と目されているテロリズムは、ある意味、このハサンを起源を言っても過言ではなかった。



 アサシンはアーサー王のような分かり易い英雄ではない。
 舞台が日本であることも加味すれば、知名度も低いだろう。
 しかし、たしかに聖杯戦争に参戦する他の英霊と比べても遜色ない、歪な英雄だった。
 ハサンの昏い眼窩から射られる視線に、凛の背筋は凍る。
 本物のアサシン。
 真名の露見を問題無しとする理由は、バーサーカーの場合は「無意味」だからだが、このアサシンは「虚無」であるがため。
 当時を生きた人間ですらわからないものを、どうやって現代人が知ればいいというのだろう。
 そこまで意図したものか不明だが、正体を知れることで逆に、形なき不気味さを煽る効果はあった。




「どういうつもりかは分からないけど、真名を明かしたからって、私は手加減なんかしないわよ」

 凛の強がりに対して、代わりに士郎が応える。

「知ってる。遠坂は参戦するんだろう。出来れば戦いたくないけど、俺には止めれないんだろうな……」

「ええ、そうよ。私は勝つつもり。だから、ここで分かれましょう。次に会った時は敵同士よ。
 教えるべき事は教えて義理は果たしたし、これ以上はそれこそ感情移入だもの」


 彼女は魔術師の目をしていた。
 躊躇いも無ければ悔いも無い、学内で見るお嬢様な遠坂凛とは違う、冷徹な神秘の探求者がそこにいる。
 なのに―――と不意に士郎は思った。
 なのに、どうして自分に聖杯戦争の何たるかと教示したのか。
 ルールは有って無きが如し、弱肉強食の聖杯戦争。
 凛が形振り構わぬ勝利に固執するのなら、無言で士郎を切り伏せているはずだった。
 だが、彼女はそうしない。何故か。
 セイバーを見る。凛のサーヴァントである彼女も公正であることを望んだ。
 聖杯は欲しいが、生き方までは変えない。譲れないものがある。何より騎士であることを優先した。
 おそらく、凛が目指す魔術師というのも、



「――ああ、遠坂っていいヤツなんだな。俺、おまえみたいなヤツは好きだ」


「と、突然、何を言ってるのよ、あんたは!」


 狼狽え、凛は表情を隠すようにそっぽを向いた。
 両端で結び付けてある黒髪が揺れる。
 士郎が口にしたのは、あくまで当人の正直な感想。世辞を述べれるほど彼は器用ではない。
 それがわかるからこそ、照れ赤くなる自分を抑えることができなかった。
 ある意味、苦手なタイプだと、誰に対してのものかわからない舌打ちをする。


「とにかく! 私はこれで帰るからね。
 そうだ―――言い忘れてたけど、一度、教会にも顔を出しておきなさい」

「キョウカイ?―――って、協会? 教会?」

「魔術じゃないほうの"教会"よ。
 今日はもう遅いし疲れてるからいいけど、なるべく早いうちに……そう、明日にでも行った方がいいわ。
 冬木には新都にある言峰教会の一軒しかないから、場所はわかるわね?」

「ああ、それはわかるけど……でも、どうして教会なんだ? 魔術師とは仲が悪いんだろ?」

 教会は異端を嫌う。表向きは対立はせず、魔術協会とは互いに不干渉を常としているが、間違っても協力するような間柄ではない。

「そこで似非神父をやってる言峰綺礼ってやつが、今回の聖杯戦争の監督役なのよ。
 ソイツ、神父のくせに協会にも所属していたようなヤツだから、まあ、両方に顔が利くんで、監督役にはお誂え向きなんでしょ」

 言峰のことを語る時、凛は何とも微妙な表情をする。
 十年来の知人であるのにもかかわらず、未だ性格が掴みきれない。
 信頼の置けない人物であるとの評価を彼女は下していた。
 だが、それでもやはり兄弟子であり、言峰は凛にとって第二の師とも言うべき後見人だった。思いは複雑だろう。


「そういうわけだから、衛宮くん。訪ねれば聖杯戦争のこと、もっと詳しく教えてくれるはずよ……たぶん。
 教会は戦闘放棄したマスターの避難場所にもなっているから、綺礼と話したくなくても、せめて下見ぐらいしておきなさい」

 言いたいこと、言うべきことだけを告げて、凛は士郎に背を向けた。


「じゃあね。お互い、生きていたら、また会いましょう」




 凛は振り向くことなく、この場を後にした。
 セイバーはその後ろをついて行く。凛の代わりに一度だけ首を曲げて背後を見て、士郎と目が合った。
 アサシンのマスター。
 であるのに、不可解な縁を彼女は感じている。側にいることの安堵感、郷愁、或いはそれ以上の何か。
 マスターである凛に不満があるわけではなかった。
 前回のマスターは優秀ではあったが、通わせる絆がなかった。凛とはそれがある。魔術師としても及第点以上であろう。
 だが、もし―――とセイバーは考えてしまう。
 もし、あの少年が自分のマスターであったのなら……
 …………
 ……
 いや、と、彼女はその考えを振り払った。
 イフを語るのは無意味であるばかりじゃなく、脆弱な心の証し。セイバーはそれを好まない。
 彼女が聖杯を求める目的が、歴史の修正そのものであるとしても。

 今度こそ未練を絶ち、セイバーは主の方へ駆け出していった。






 場に残されたのは士郎とハサン。この主従。

―――いったい、何を話せばいいんだろう?

 凛がいた時は意識していなかったが、話題がない。共通点がない。そもそも世間話がアサシンにできるのだろうか?
 突然真っ暗な海に放り出されたような不安が士郎を襲う。

―――でも、何とかやってくしかないんだよな。

 覚悟ならもう既に終わっている。暗いのなら、足元から準じ照らしていけばよい。


「先程のセイバーのマスターの言葉ではないが、我らも早々にここを離れるべきだろう」

 黙る士郎に、ハサンが言う。

「……ああ―――いや、帰る前にちょっとやり残したことがある。疲れてるところ悪いけど、アサシン、手伝ってくれないかな?」

「魔術師殿。何をするつもりかはわからぬが、いちいちわたしに伺う必要はない。命を下せば、それに従うまで」

「でも、これは俺の我侭だから。自己満足かもしれない。だから、やっぱり、これは俺からのお願い」

「……ならぬ。我らはあくまで主従。如何に魔術師殿が忌憚なき好漢と言えど、この関係は崩せぬ。
 わたしのことは都合良き奴隷とでも思ってくれればよい。命を下されよ」

「いや、さすがにそれは―――」

 ハサンは妙なところで頑固だった。
 サーヴァント皆がそうなのか、それともたまたまなのか、こういうところだけはセイバーと似た部分がある。
 延々とやりあっていても仕方ないので、士郎の方から折れた。

「わかった。アサシン、手伝ってくれ」

「―――承知した」






      …






 土を掘り返していた。黙々と。
 月夜の静謐。深い森。木々が梢を揺らしていた。


「魔術師殿、このぐらいでよろしいか?」

「ん〜、もうちょっと深いほうがいいかな? 人目には晒したくないし、念には念を入れて」

 士郎の言葉に頷き、ハサンはまた作業に戻る。


「そういえば、さっきから気になっていたんだけど、その『魔術師殿』って、俺のことだよな?」

 沈黙を恐れたか、士郎はそんなことを言い出した。

「―――?」

「いや、さ。マスターなわけだし、確かに魔術師なんだけど、正直、俺は落ちこぼれなんだ。
 強化魔術しか使えないし、それもここ数年、成功したためしがないし……
 だから『魔術師殿』なんて言われると、照れるというか、違和感というか、逆に自分の未熟さを突きつけられてるみたいで」

「つまり、不快である、と」

「そこまで嫌なわけじゃないけど、できれば変えて欲しいかな」

「―――ふむ」

 と、ハサンは少し考える。

「では、変えることにしよう。この程度のことで心を砕く必要はない。で、何とする?」

「そうだなぁ……」

「マスター、ご主君、主殿 ――― ご主人様?」

「いやいやいや、もっとフランクに。とくに最後のは勘弁してくれっ」

 忘れがちだが、ハサンの声はイリヤのものである。
 最後の呼び名だけ、微妙な情感が込められていたのは気がしたのは錯覚だ……と思う。

「名前でいいよ。俺は衛宮士郎。そういえば、俺の方からまだ自己紹介してなかったな―――知ってるとは思うけど」

「ふむ。では、士郎殿、と。これでよろしいか?」

 まだ固いが、そのへんが妥協点だろうと士郎は思った。

「うん。それでいいよ、アサシン………と、せっかくだから、これも変えようか。アサシンって、あまりいい意味じゃないんだろう?」

「確かに我らへの蔑称ではあるが―――」

 自分は別に構わないと言う。
 それで納得できる士郎ではない。蔑称と知って使い続けるほど図太い神経は持ち合わせていなかった。
 それに、ハサンは卑屈というか、自分を軽視する傾向があることに士郎は気づいてもいた。
 ならば、それを矯正する意味でも変えるべきだと思った。

「名前、なんか言ってたよな。ハサンだっけ。そう呼んでいいかな?」

「――――――」

 答えが返ってこない。ハサンは即答できなかった。

「あれ? 真名で呼ぶのはやっぱり不味い?」

 問題ないとは言ったが、それは凛との駆け引きの際に出た言葉。
 セイバーなどとは違い、アサシンは名前で能力が知れるようなことはなかったが、それでもリスクは皆無というわけではない。
 しかし、理由の一つであろうが、躊躇う部分はそこだけではなかった。
 ハサンという名前の意味。ペルシャ人としては有り触れた名前の意味を、日本人である士郎にはわからない。
 顔が無い暗殺者には、一種の皮肉であるということを。

「―――構わない。魔術……士郎殿がそう呼びたければ、わたしはハサンで構わない」

 思い直して、ハサンは士郎の提案に同意する。
 やはり奪った心臓の影響が出ているのだろうか。
 幾つもの侮蔑、恥辱にも動じなかった本来の自分に立ち返り、肯定を通す。
 その様子に、少し引っかかりは覚えたが、ハサンが言いならば、と、士郎も納得した。




 それから数分後―――

「だいたい、そのへんでいいかな?」

 主の言葉を受けて、ハサンの手も止まる。
 地には大きな穴が開いていた。ここまで仕上げるのに、思ったよりも時間がかかってしまった。
 理由はハサンが持つ斧剣。もとが触媒だったのだろう。バーサーカーが消えても残ったこれを縦穴掘りの道具として使った。
 武器であるだけに地を穿つにはじゅうぶんだったが、思ったよりも土を掻き出すのに手間取ったのだ。

「ごめん。結局、力仕事は殆どハサンに任せてしまったな」

「気にするでない。向き不向きを考えれば、確かにわたしの方が適任であろう。
 こんなことで士郎殿の手を煩わせ、後日に疲れを残すようなことになれば悔やんでも悔やみきれぬ。
 であるから、望むところ。堂々としておればよい」

 ハサンなりにおかしな気遣いを口にして、斧剣を杖に、大きく伸びをした。
 いくら人間以上のサーヴァントであるとはいえ、ハサンは見るからに土木作業に向いた体躯をしていない。
 下手をすれば、戦闘よりも疲れたのではなかろうか、とさえ思う。

 ハサンが作った大きな縦穴に、士郎はイリヤスフィールの亡骸を沈めた。
 目を閉じ、しばし黙祷する。
 イリヤの家が何を信仰していたか、もちろん士郎には分からない。
 だから祈りの言葉はなく、彼は自分に出来る限りの思いを込めて、その死を悼んだ。
 目を開ける。
 まだ眠っているような端正な顔を眺め、別れを済ませた。

 …………
 ……

「ハサンはどう思う?」

 土を戻しながら士郎が訊いた。
 客観的に見れば、殺人・遺体遺棄そのものであるが、粗雑で飾り気がなくとも、彼の心情ではあくまで埋葬。
 放っておいても、監督役であるという神父がしかるべき処置を執り行ってくれたのかもしれない。
 が、最悪、群がる魔術師たちが、死者への冒涜行為に及ばぬとも限らず、士郎にはそれが許せなかった。
 彼が「やり残したこと」というのがこれだった。

「―――さて、な。わたしは誰かを埋葬したことも、されたこともない故、わからぬ」

 ハサンが答えた。

「ハサンになって時点で、我らは死者になったも同然。敵陣で果てた者は、そのまま捨て置かれるのが通例だった。
 同朋に要らぬ危険を強いるのは、無駄というものだろう」

「死して屍拾う者なし……か。言われてみれば、忍者みたいなものなのかもな、アサシンって。
 やっぱりハサンの目からは、俺のやっていることってのは無駄に見える?」

 ハサンは皮肉や世辞を口にしないと感じ、偽りのない感想を聞きたくて、士郎は言った。


「過去の亡霊であるわたしが言うのも何だが、死者は何も感じない。もう終わっている者だ。
 意味があるとすれば、それは残された者にとってであろう。弔うことで気が済むのなら、一概に無駄とばかりは言えない」

「……手厳しいな。たしかにその通りだと思う。
 気をつけていても、犠牲者は出てしまう。どんなにうまくやったって、倒したヤツは救われていない。
 俺だって分かっているんだ。でも―――」

 埋め戻しが終わった。
 墓標代わりに、と、士郎はバーサーカーの斧剣を立てる。


「―――でも、それを仕方ないと思いたくないんだ。
 理由はどうあれ、犠牲になった人に悲しむことが出来なくなったら、俺はきっと駄目になる……そんな気がする」



 ようやく長い夜が終わろうとしていた。














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