「む、鍵が開いてるな。美綴のヤツ、忘れたのか? なんて無用心な」

 ひとりごちりながら扉を開け、弓道部の道場に入った。
 部員がいる時は戦場のような道場も、今はひっそりと静まり返っており、やけに広く感じる。
 手招きでセイバーを呼び、中に入るように促した。

「さ、セイバーも。椅子はないけど、どっか適当なところにかけていいから」

「はい。それではお邪魔します」

 俺の後に続き、セイバーも道場の中に入った。向かい合う。
 そして会話が無くなった。

 「…………………………」

 「…………………………」

 彼女と対面するのは通算、これで三度目。
 けれど、過去いずれも間に誰かいたワケで、二人きりになるのは初めてのコト。
 本当に、まいる。
 訊きたいことはたくさんあるのに、まともに目も合わせられない。
 鎧姿のままであれば、現実と剥離した存在と割り切りる事も出来た。
 が、今は俺にとって日常の近いところにある学園の、女子生徒の制服に袖を通している。
 その落差があまりにも生々しくて、否応なしに異性を意識せずにはいられない。
 ……いまさら確認するまでもないことだけど、彼女はとんでもない美人なのだ。

「――― 余人の目がある場ですから、アサシンのマスター、といつまでも名指すのは良くありませんね。何と呼びましょうか?」

 俺の心中を知ってか知らずか、セイバーは慇懃、穏やかな口調でそう話し掛けてきた。
 確かにその呼び名では、事情を知らない人間が聞いてもわけがわからないし、かといって事情を知るヤツが聞くのはもっと拙い。
 会話のきっかけを作ってくれたのは幸いと、俺はまるで初対面であるかのように自己紹介する。

「とっくに知っているとは思うけど、俺は衛宮士郎。好きに呼んでくれていい」

 するとセイバーは少し考えての後、言った。



「それではシロウと。ええ、私としては、この発音の方が好ましい」










   Faceless token.     11 / Fellow









 ざわめき鳴り止まぬ教室内―――

「さ、ホームルームはこれで終わり。授業始めるわよ。あっ、席は士郎の後ろだから」

 頃合を見計らって、藤ねえが終わりを宣言した。
 勝手知らぬはずの転校生を相手に、『席は士郎の後ろ』は、ちょっと無いだろうと思う。だが、

「――――――――」

 亜麻髪の少女はこくりと頷いた後、躊躇いなく動いた。
 まるで、『士郎』が誰であるかを知っているみたいに。
 カツカツと教室の床を叩く靴音が近づいてくる。

 セイバー? だよな……

 そろりと様子を伺う。
 顔を上げると、席へ移動する途中の彼女と目が合った。
 それは偶然なんかじゃなく、何かしらの思惑を孕んだ故意の一瞥。
 周囲に気取られぬ程度の数瞬、視線が拘束された。
 ああ、そうだ。
 彼女は……"セイバー"は、他人の空似なんかじゃなく、間違いなく俺を知っている。
 それで俺は確信した。
 確信せざるえなかった。


 でも、どうして学校に?
 それも、遠坂がいるA組ではなくC組へ?


 今のところはっきりしているのは、マスターである遠坂が裏で手を引いている、ということぐらいだ。
 目的は只の嫌がらせ―――も含まれているんだろうが、まさか、それだけのために、こんな手の込んだ真似はしまい。
 聖杯戦争に関わる何かしらの意味があるはずだが、見当がつかなかった。
 思考能力が低下している。どうやら俺は、俺自身が思っている以上に狼狽えているらしい。
 だったら、本人に直接訊ねるのがいちばん早いのだが―――、


「―――前の学校ってどんなんだった? 恋人とか、いた?」

「授業わかる? なんだったら拙者が―――」

「あの、部活は何かやっていましたか? よければ陸上部とかはどうでしょう?」


 と、休み時間になった途端、セイバーはクラスメイトたちに取り囲まれた。
 そして無数の質問攻めに合う。
 幸か不幸か、すっかり俺は蚊帳の外。
 これでは、編入の事情を問い詰めるどころか、近づくことさえままならない。
 仕方ないので、この場は聞き耳を立てるだけに留めることにした。
 セイバーは不躾な質問に対しても、誠実かつ穏やかに対応していた。
 語る言葉は勿論、すべて大嘘だ。
 セイバーはサーヴァントであり、この時代の人間ですらない。
 一見、誠実かつ穏やかに対応しているようでいて、内実は強引、無茶な論理展開で説き伏せている。
 立場や国や生まれた時代の相違による障壁は、どうやら己の器量で何とかなるものであるらしい。
 セイバーが説明する彼女の履歴は、要点だけ纏めるとこんな感じ。



 ・名前は遠坂くま子。
 ・両親ともにイギリス人だが、日本で生まれ育った良家の子女。
 ・遠坂凛とは再従姉妹の関係にある。
 ・この度、両親が英国へ引っ越すことになった。
 ・が、とある事情で、くま子嬢だけ、日本に残ることになった。
 ・そこで、今は親戚である遠坂の家を仮の住まいとしている。
 ・せっかくだから、と、遠坂に学園に通うように薦められて、

 ――― 現在に至る、と。




「へえ、そうだったんですかー」

 偶然耳にした、そんな女生徒の相槌。

「……ふむ。血筋は異国でも、中身は日本人というわけか。理解はできるが、詐欺みたいだな」

 ごもっとも。だが、仕方がない。
 留学生の肩書きを使わないのが不思議だったが、理由は一時限、藤ねえの授業で直ぐに判明している。
 少し考えればわかる話で、なにせ、実在のアーサー王は西暦五世紀頃の人物なのである。
 日本で言えば聖徳太子よりも昔、だいたい日本武尊と同世代だ。
 中世騎士というより、古代戦士と呼んだ方が実情に近い。
 当然、解するのは英語と呼んでいいものかも怪しい大昔のイギリス言語であり、現代英語とは非なるもの。
 つまり、セイバーは英語ができなかった。
 もしかして学があれば、ラテン語ぐらいはいけるのかもしれないが、日本の学校では何の意味も無い。
 これでは当然、留学生を名乗ることができなかった。
 そのくせ、聖杯の助力で日本語を完璧に使いこなせるのだから、違和感覚悟でそういうことになったのだろう。
 このことをきちんと踏まえているあたり、セイバーの転校は行き当たりばったりの行動ではないと感想を持つ。



「鐘ちゃん、失礼だよ。遠坂さん、困ってるじゃない」

「いえ、お気になさらず。実情と見た目のギャップを指摘されることには馴れていますから」

「―――だってさ。下手に英語をぺらぺら喋られるより、親しみがあって、あたしはいいけどね。
 それよか、由紀っち、『遠坂さん』だとA組の遠坂と被ってるぞ」

「へ? あ、そっか。蒔ちゃん、どうしよう……」

「そんなの、本人に訊くのが早いだろ。そういうわけで、アンタのこと、あたしらは何て呼んだらいい?」

 口にしかけて、ちょっと躊躇う。

「えっと……クマ……?」


 本人が名乗ったファーストネームを、女生徒は微妙な表情で復唱した。
 彼女らより知識のアドバンテージがある俺だが、そこの部分の認識はそう変わらないかもしれない。
 本名が名乗れないのは当然だし、苗字が遠坂なのも親戚という設定なのだから了解できる。
 でも、『くま子』……って何だ?
 遠坂のセンスだろうか。
 だとすれば、将来、遠坂と結婚するヤツは、遠坂に子供の命名権を譲れない。



「―――でしたら、セイバー、と。リンもそう呼んでますので」



「………………」

 なんだ、セイバーでいいのか。
 てっきりそっちも伏せているのかとも思ったが、そういうわけではなかったらしい。
 やっぱりちょっと……、その方が俺も助かる。
 ―――と。

 ガタンッ。

 俺以外、誰も気づかなかったようだが、背後から椅子が引かれる音がした。

「あれ? 慎二…………?」

 席を立ったのは間桐慎二だった。
 最近は疎遠になっているが、桜の兄貴で、俺とは何かと腐れ縁が続いている友人の慎二、その人である。
 様子がおかしいので、気になって追いかけた。

「どうしたんだ、慎二。何かあったか?」

 キッと睨みつけられ、

「五月蝿いな、衛宮っ! 僕のことは放っとけよ!」

 掴もうとした腕を素気無く振り払われた。
 なんなんだ、アイツ。
 強い語調とは裏腹に、慎二は青い顔をしていた。
 そういえば、いつもの慎二なら率先して女の子に絡むヤツなのに、セイバーを囲む輪の中に加わろうともしてなかった。
 近寄り難いのはわかる。
 しかし、慎二がそんなタマだとはとても思えない。女の子に関してだけは。
 ひょっとして体調が悪いのだろうか?
 ああ見えてプライドが高いヤツだから、異性とはいえ、クラスの人気を集めるのが気に入らないのかもしれない。
 慎二を追いかけるのを諦め、俺は席に戻ろうかと振り返った。と、

「……うっ」

 セイバーに見られている。
 口は和やかに他生徒と談笑しているのに、目だけはこちら。
 見られているというより、むしろ睨まれていた。
 俺より身長が低いのに、高いところから見下ろしているような感じで。

「………………」

 こんなことに気をとられている場合じゃなかった。
 うん。
 当面の問題はセイバーである。
 慎二のことは後にしよう。

 ……結局、この日は出て行ったきり、慎二が教室に戻ってくることはなかった。




 鐘が鳴り、二限目の授業が始まりを告げる。
 時間ぴったりに教室に入ってきたのは、遠坂と美綴がいるA組担任で、生徒会顧問もしている葛木先生だった。
 俺のクラスでは世界史と倫理を担当している。
 葛木先生は教壇に立ち、ちらりとセイバーを見た。

「……うむ。話には聞いていたが、外国人の転入生は初めてだな。
 注目は避けられぬだろうから、周りの生徒はしっかり気を遣ってやれ」

 それだけ言うと、葛木先生は何事もなかったように「では」と授業を開始した。まったく動じた様子はない。
 藤ねえも大概だが、この先生も別な意味で結構な変わり者である。
 なにせ経歴は不明。噂は数あれど、すべて妄想の域を出ないものばかり。
 極めて真面目で堅物で美綴の話では、、HRで言う〆の言葉は、毎日一言一句違わぬほどだという。
 融通が効かず、誤字一つでテストを中止させた、という伝説も持っていた。
 素っ気なく見えるが、誰に対しても平等に誠実であるので、これはこれで生徒からの人気は高い先生だった。


「―――では、これで終わる」

 と、葛木先生が退出し、再び休み時間。
 やはりというか、当然のように、またセイバーを中心とした円状の人垣が出来上がっていた。
 この分だと今日いっぱいは、セイバーと学校で二人きりの時間を作るのは無理、と、俺はようやく悟るに至る。



「ふむ、まだ二限目が終わったばかりだというのに、彼女の人気は大したものだな」

 黄昏る俺の横に、いつの間にか近づいていた一成がそんなことを言った。

「兄……いや、葛木先生が気を遣えと言ったばかりであるのに、うちのクラスにも困ったものだ。
 しかし、それも詮無きこと。たしかに彼女は人を惹きつける何かを持っている」

「ん……そうか?」

「ふっ、見よ、衛宮っ! 心酔し切ったあの者たちの顔を。あれらを成した業が彼女に人徳がであることの、何よりの証拠ではないか」

 まあ、一成が言いたいこともわからなくもない。
 さっきまで他クラスメイトが質問し、セイバーが答えるという図式だったものが、今では完全に逆転している。
 会話の主導権はすっかりセイバーに押さえられており、あろうことか、生徒たちの台詞の中に敬語が混じり始めてさえいた。
 さすがは王さま。あの外見では女王ないしお姫さまであるのに、傅かれるではなく率いる様を見せられては、やはり「王さま」だと言わざる得ない。
 これがカリスマというやつか。

「しかし、一成が誰かをそんな褒めるなんて、珍しいな」

 ホント珍しい。
 この生徒会長は何処までも生真面目な神仏の徒である。
 向かうべきは日々の自己研磨であり、他人への即物的な評価など口にしないのだ。
 但し、一人を除く。

「む、遠坂めか。アレは女狐だ。女生だ。妖怪だ。外見に騙されるとパクッと食われるぞ、衛宮」

 といった感じに、どういうわけか一成は、遠坂に対してだけは限りない悪意に溢れた評価を公言し、目の敵にしている。
 つい以前までの俺なら偏見と聞き流していたところだが、今聞くと、実は半分ぐらいは合っているなと思わなくもなかった。

「でも、遠坂とセイバーは親戚だ」

 熱くなる一成に一応の言及はしておく。嘘なのは知っているけど。

「むう……そうなのだ、そこが解せん! どうして、あの女狐と彼女が親戚なのだ? 似ても似つかぬではないかっ!」

「いや、遠坂とセイバーは結構似ていると思うぞ」

 やられる前にやるタイプなところとか。

「まさか! むむ、本当なのか?」

「ああ」

 即答する。

「遠坂だって一成が言うほど悪いヤツじゃないぞ……たぶん」

 喋っているうちにちょっと自信なくなってきたが、たぶん。






 遠坂か……

 談笑するセイバーを目の端に捕らえながら、俺は考えていた。
 そう、何もセイバーに訊かなければ分からないという話ではなかった。
 おそらく、当事者よりも詳しいと思われる黒幕が存在する。
 目前のセイバーは諦め、やはり遠坂に直接訊きに行く方が確実か。
 昨日の今日なので、自分からは接触すまいと思っていたが、この際、会いに行くしかないだろう。

 無意味に時間が過ぎ、そして昼休みを告げる鐘が鳴った。
 と、同時に立ち上がり、俺は行動を開始する。




「あれ、衛宮だ。アンタとこんなところで出くわすなんて珍しい。うちのクラスに何かよう?」

 廊下からA組を覗き込んでいると、背後から声をかけられた。
 振り返ると、至近距離で、見知った女生徒の顔が大写しになる。
 女生徒の名は美綴綾子。
 一年生の頃クラスメイトだったヤツで、今は遠坂と同じA組、そして弓道部主将をしている女傑だ。
 俺が元弓道部員だったこともあり、気さくに会話できる間柄でもある。

「美綴か、ちょうどいい。遠坂いないか? いたら呼んできて欲しいんだけど」

「え、遠坂? どうして?」

 珍獣でも見るかのような顔で、美綴はそんなことを言った。

「どうしてって言われても、用事があるから、なんだが」

「遠坂を呼び出すなんて、だいたい目的はロクでもないことが多いんだけど、まさか衛宮もそのクチ?」

「む、そんなワケないだろ。 美綴が考えているようないかがわしいモノじゃない。
 個人的な用向きだから内容までは話せないけど、遠坂に俺が来たと伝えれば、きっと向こうはわかると思う」

 すっと美綴の目が細まった。

「なに? 衛宮と遠坂って知り合いだったの?」

「まあ、知り合いと言えば、知り合いだ」

 "コロシアイ"を前提としたお付き合いだけどな。

「ふうん。個人的な用向き、とやらで、以心伝心が通じる程度には仲がいいんだ。
 アイツ、お高くとまっていて、付き合い悪いでしょ。それとも案外、男の前では殊勝だったりして」

「いや、あの"あかいあくま"に限って、それはない」

「……………………」

「……………………」

「あははっ! いいね、ソレ。遠坂のこと、的確に表してるわ」

 俺の言葉が美綴の琴線に触れたらしく、豪快に笑った。
 不意をうたれて慄く。
 ひとしきり笑った後、美綴は何やら独り言を呟き始めた。

「―――衛宮か……ファザコンだし、もっと年上好みだと思ってたけど、言われてみれば案外、納得できる組み合わせだわ。
 普段のアイツが猫被ってるのも知ってるみたいだし、やっぱ、当たりかね。こりゃ、間桐が泣くわ」

「な―――! 遠坂とはそんなんじゃないって!」

 俺ないし遠坂への評価が、美綴の中で凄いことになっている。
 内心、結び付けられたことに悪い気はしなかったが、事実じゃないので嗜めた。
 俺はともかく、そんな噂が流れたら、遠坂の方が迷惑だろう。
 たしかに共有の秘密を持っている。
 しかし、それは甘酸っぱい学生の馴れ合いじゃなくて、血生臭い魔術師同士の、もっと物騒なモノなのだ。

「だいたい、どうして慎二が泣くんだよ。癇癪起こすんだったらわかるけど」

「はぁ……衛宮ってば、ほんとにアレだねぇ。付き合うヤツは大変だわ。
 ――― ま、たしかに慎二のヤツ、遠坂にこっぴどく振られて、癇癪起こしてたけど」

「え……ほんとか?」

「噂だけどね。でも、間違いないと思う」

 うわ……ご愁傷様。
 冷たい笑みを浮かべてあしらう遠坂と、赤くなってプルプル震える慎二の絵がたちどころに浮かぶ。
 なにしろ時期が悪い。
 今は聖杯戦争でゴタゴタしている最中であり、いくら遠坂でも神経過敏になっているはず。
 色好い返事が期待できるわけもなく、慎二相手にいつもより三割増しぐらいの凶悪な台詞で伸したに違いなかった。
 機嫌が悪そうに見えたのは、その所為か。

「……まったく、ヤなこと思い出しちゃったわ。おかげで、こっちはいい迷惑よ」

 と、美綴らしくもない溜息を吐いた。

「ん? 慎二のヤツ、何かしたのか?」

「したした。わざわざ女子を集めてね、弓を持ったばかりの子に射をさせて、的中するまで笑い物にしたみたい。
 その慎二の八つ当たりのおかげで、吊るし上げられた子が辞める、なんて話になっちゃってるしさあ……」

「なんだよ、ソレ。いくら慎二でも、素人を見せ物にするようなヤツじゃないだろ」

「衛宮、甘すぎ。慎二は昔からそういうヤツよ。
 ともかく、衛宮の方から言ってやってくれない? 振られるのは勝手だけど、弓道部員に当たるのは止せって」

「いや、でも、俺、もう弓道部とは縁を切ってるから……」

「アンタね、弓道部の話になると急に冷たくなるよね。後に残されたあたしたちの気持ちも考えて欲しいモノだわ。
 それに、慎二とは友達でしょ? 弓道部とは関係なくても、アイツの男友達はアンタだけ。
 自分が主将になれなかったからあたしのことを目の敵にしてるみたいでさ。
 素直に聞くとは思えないけど、それでもあたしより衛宮から話した方がまだマシでしょ。頼まれてくれないかな? ね?」

 美綴は顔の前で両手のひらを合わせた。

「……わかった。機会をみて慎二に話してみる。但し、結果は期待するなよ」

 さすがに、そこまで言われては断れない。
 ……ったく、慎二もしょうがないヤツだなあ。
 最近はどうにも折り合いが悪く、お互い避けているような状態になってしまっている。
 だが、それでも慎二は俺の友達なのだ。
 その友達に悪評を問い詰め、正すぐらいのことは、言われなくてもすべきだろう。

「よかった。じゃ、お願いするわね。コレ、あたしへの貸しにしてもイイからさ」


 と、美綴はウインクした。
 それから「昼食があるから、これで」と立ち去ろうとする。
 俺はその姿を見送る。
 ―――と、何か忘れているような……って、

「美綴、ちょっと待て! 俺の用件がまだ済んでない。遠坂はどうした?!」

 慌てて引き止める。

「あ、遠坂ね。遠坂なら、いないわよ。昼休みになって直ぐにどっかに行っちゃったわ」

 振り返って、あっさり言い放つ美綴さん。

「マジか。 何処に行ったか知らないか?」

「さあ? 知るわけないでしょ、そんなもん。あたしは遠坂の付き人じゃないんだし」

 まあ、それはそうだろう。
 おそらく今から探しても見つからない。
 遠坂のことだから、俺が来るだろうことは予想したいたはず。
 その上でいないのだから、逃げた。
 つまり、俺と会うつもりがないのだ。
 とんだ無駄足だったみたいだ。

「どうする? あたしと一緒に中で待つか? 衛宮も昼まだだろ? 」

 考え込む俺に、美綴は訊いてきた。

「んー……」

 その提案は決して悪いものではない。
 いつか遠坂は戻ってくる。闇雲に探し回るより確実だ。

「でも、いいのか? A組だぞ、ここ」

「いいって。クラスメイトのあたしが誘うんだから。
 それに、せっかくおいしいネタを入手したんだから、あたしも遠坂にいろいろ訊いてみたいしね」

 と、美綴はクシシと笑った。
 さっきから聞いていると、どうも遠坂と美綴は、ただクラスが同じというだけの間柄ではなさそうだ。

「いや、そういうことじゃなくて、だな……」

 こんなことを言えば本人に失礼かもしれないが、一応、美綴は女の子なわけだ。
 で、俺だって健全な男子だったりするわけで、変な噂が流れたりしないだろうか?
 堂々としていれば逆に無い―――いや、そもそも何かあると考えるのは、俺の自惚れ過ぎか。
 さあさあと促されて、美綴の提案に傾きかける。
 ……と。



「――――む?」

 くいっと袖が引かれた。
 事後感想になるが、何となくこうなるのではないか、という気がしていた。
 俺のこの手に、主導権なるものが与えられることはない、と。
 正面を見ると、美綴が目を見開くという珍しくも面白い顔をしていた。
 ……たぶん、予想通りの人物が俺の背後に立っている。


「こんなところにいましたか……ずいぶん探したましたよ」

 この声、間違いない。振り返るとやはり、

「せ、セイバー。どうして?」

 穂群原学園女子の制服で武装した、金髪碧眼の騎士王が俺を見上げていた。




「どうした、ではありません。昼を一緒にとの約束だったはず」

 そんな約束したっけ?……してるわけないよな。
 セイバーが転校してくることは朝になって初めて知ったことで、かつ今日はまだ一言も会話してない。
 ならば、これは俺と話をするための口実か。

「あ……ああ、そうだった。ごめん、ちょっと用事があったんだ」

 と、口裏を合わせる。

「思い出してくれたのでしたら、それで私は構いません。さあ、行きましょう」

 穏やかな口調とは裏腹に、セイバーは俺の手をがっちりと拘束する。
 少女の姿をしていても、セイバーはあくまで人間以上の力を持つサーヴァント。
 俺の力では逃げ切るものではないし、逃げようと考えることすらできない。
 大人しく従うより他なかった。


「衛宮、なに? その子」

 声がかかる。
 そういえば美綴がいたのを忘れていた。

「こ、これはだな……、そう、セイバーだよ。今日、俺のクラスに転校してきたんだ」

 何か言い訳しようとして、出来てた言葉は単なる紹介だった。

「ああ、この娘が噂の金髪美人さんか。ふうん……」

 良くも悪くもセイバーは目立つ。
 転校生な上に、この容姿だ。
 午前の内に他クラスの生徒の耳に届くほど噂が広がっていたとしても、不思議はない。

「なるほど、綺麗な子ね。外人効果で半分眉唾だと思っていたけど、実物は噂以上にカワイイ。
 こりゃ、うちのクラスの男共が騒ぐのも無理ないわ」

 美綴は値踏みするようにセイバーを眺め、褒める。

「まあ、それよか気になるのは、衛宮との関係についてなんだけどね。
 クラス委員長でもない衛宮が、どうして噂の転校生を独占できるのか、そこんとこが知りたい」

「……うっ」

 そりゃ、訊いてくるよな……。
 うーん、まいった。
 言い訳が何も思いつかない。
 ちらりと見る。
 美綴は胸の前で両手を組み、ニコニコしていた。
 それが異様に怖かった。
 まるで遠坂だ。
 そんなところ、真似しなくてもいいのに。

「美綴、これはだな―――

「美綴? ああ、貴女がアヤコさんですね。私は遠坂くま子と申します」

 ―――と。
 俺を遮るようにセイバーが前に出た。

「へ? えっと……遠坂?」

「そ、そうなんだ、美綴。セイバーは遠坂の親戚なんだ。それでアイツを探してたんだよ。
 俺との関係は、まあ、成り行きで―――」

 その言葉を足がかりにまくし立てた。更にセイバーが続ける。

「お聞きの通り、私は遠坂の縁者で、今はリンの所でお世話にならせて貰っています。
 短い間ですが、以後、お見知りおきを」

 ぺこりと丁寧に会釈した。

「あ……ああ、此方こそよろしく。あたしのことは、綾子でいいから」

「では、アヤコ、と。私のことはセイバーとお呼びください」

「しかし、遠坂の関係者だったとはね。アイツ、そんなこと一言も言わなかったし……」

「リンから話は伺っています。なんでも貴女とはライバルで、親友だとか。言い出し難かったのかもしれません」

 と、セイバーは柔らかく微笑む。
 その言葉が飾りのない真摯なものだったので、美綴は照れて顔を逸らした。珍しいものを見た。


「ん、セイバーね。これって渾名?」

「はい。私は少々剣を嗜みますので」

「お、アンタも武道やるんだ。箸も持てないお姫様さまだって聞いてたけど、噂って当てにならないものね」

 後半は合ってなくもないが、前半はまったく違う。
 箸どころか、橋を粉砕しかねない王さまだった。

「剣って言ってたけど、剣道? それともフェンシング?」

「分類は西洋剣ですが、私の場合は両手持ちなので、型は剣道の方が近いかもしれません」

「ふうん、西洋剣で両手持ちってのはあまり聞かないけど……それってハイランダーとか、そのへんのやつになるのかな」

高地人<ハイランダー>……ああ、スコットランドの猛き戦士たちのことですね。 はい、そのイメージは適切でしょう」


 話は続く。
 セイバーは言うに及ばず、美綴も武芸百般、たいていの武道に精通した豪傑だ。
 二人は共通の趣味というか接点を見つけて、大いに盛り上がっていた。
 ちなみに、ハサンのダーク<Dirk>も実はハイランダーの武器だったりする。
 もっとも、場所も時代も違うので、本来無銘である短剣に便宜上、形状が似た武器の名前を呼んでいるだけなのだろうけど。
 それはそれとして、


「―――その場合は、先ず切り落としで。可能であれば、次に鎖骨のあたりを狙います」

「ふむふむ。そこの対応は洋の東西を問わないのね。勉強になる。
 なかなかこういう話ができるヤツがいなくてさ。藤村先生は達人だけど、あの人、本能で斬りつけてくるタイプだし」


 ………………。
 二人とも、見た目は廊下で立ち話をする女子学生なのに、なんて物騒な会話なんだ。
 たまたま通りかかった人間が聞いたら驚くぞ、絶対。
 ま、いがみ合っているよりはいいけどさ。



「―――というわけで、細身剣<フェンサー>も使えなくもないですが、いちばん得意とするのは―――」

「それで<セイバー>か。なるほど―――」

 話はこれで一段落―――と思ったら、美綴がくるりと此方に振り向いた。

「―――だったら衛宮は、さしずめ<アーチャー>ってところね」


 ……そこで俺に話を振るか、美綴。


「貴方は弓を嗜むのですか? 初めて聞きました」

「いや、嗜むってほどのもんじゃない。もう、辞めてから大分経つし。セイバーの剣とは比較にならないぞ」

「またそんな謙遜を。 衛宮の射、凄くキレイよ。武道に興味があるなら、セイバーも一度、見せてもらうといいわ」

「ほほう。それは興味深い」

 ……美綴はどうあっても俺に弓を持たせたいみたいだ。
 そういえば、俺が辞めると言った時も、怒るを通り越して呆れ、結局、美綴は最後まで認めようとしなかったことを思い出した。

 もとは精神集中を要する競技であるため、魔術鍛錬にもなるかと思って始めたのが俺の弓道である。
 結果はご覧の通りで、だからきっかけはどうあれ、辞めたことに俺自身は未練はない。
 慎二以下、残った他の部員の体面もあるから、辞めた人間が弓を持つのは自重すべきだと思う。

 "一度射手たらんと志す者は、真の意味を具備した後にこれを永久に続ける事なり"

 そもそも、日に二百以上の矢数をかけよ、という中貫久の教えの久が抜けてしまった俺に、もう弓を持つ資格なんてないのだ。


「ブランクあるって言うけど、衛宮のレベルなら、今でも的に中たるでしょ?」

「そりゃ、中てるだけならな。でも、それはやり方を知ってるからで、誰でもそうだろ?」

「あ、今のはちょっと頭にキた。普通は努力してもなかなか出来ないから、皆、頑張るんじゃない。
 それを、さも当たり前みたいに言えるのは、衛宮だからでしょ。
 誰だってね、こうなったらいいな、こうなりたいな、って色々やるわよ。けどそれは想像。衛宮みたいに、“見れてる”訳じゃない。
 慎二みたいになれとは言わないけど、もう少し自分に我侭になって、周りを安心させてあげてもいいんじゃないかな。
 ね、セイバー、どう思う?」

「そうですね。今のは貴方が悪い」

 俺が悪いのか?
 ここは嘘でもいいから、「中らない」と言うべきだったのか。
 二人に集中して責め立てられる。
 自分に我侭になれと言われても、何をどうすればいいのか、俺にはわからない。


「……ったく。あたしがお飾りの主将って気分が抜けないのは、アンタの所為なんだからね。
 ま、もういなくなってしまった人間に、こんなこと言っても仕方ないんだけどさ」

 と、頭を掻き、美綴は言い捨てた。
 もともとスッパリした性格の彼女である。そこのところは俺も昔から気に入っている。
 口ぶりからして弓道の話は終わり。解放してくれるようだ。
 で。

「あたしはお邪魔みたいだから、そろそろ退散するわ。またね、セイバー。それから衛宮も」

 そう言って、片手をヒラヒラさせながら、美綴はA組の教室に戻って行った。
 さて、と。



「………………」

 セイバーとこの場に残された。思わず見詰め合う。

「何をしているのですか? さあ、行きましょう」

「行くって何処へ?」

 あ、そっか。
 何処へ行くかなんて、決まっている。人気のない場所だ。
 変な意味じゃなく、聞かれてはいけない内密の話をする予定だから。
 人気があっては拙い。
 都合悪いことに、俺はそれが可能な場所を思いついてしまった。

「セイバー、そこでちょっと待っててくれ。すぐ済むから」

 と伝え、行動する。俺は美綴を追いかけた。

「どうした、衛宮? まだ何かよう?」

「ああ、美綴。実はさっきの慎二の話なんだが、ちゃんとするんで、貸しの前借をさせて欲しい」

「―――?」

「何も言わず、昼休みの間だけでいいから、弓道場を貸してくれ。主将に公私混同させて悪いんだけどさ」

 あそこなら学舎から離れているし、問題ない。
 他に、時期が時期だけに屋上を使うという手もあるが、長時間いるにはさすがに寒すぎる。

「それはいいけど、どうして?――――――って、いや、訊かないでおいてやるよ。
 それも条件に含むみたいだし、これ以上衛宮を苛めるのはかわいそうだからな」

 ニヤリと美綴は口許を歪めた。
 くそう。絶対何か勘違いしてやがる。
 言い訳しようにも、薮蛇になるのが目に見えていたので、無視することにした。

「サンキュ。恩に着る」

 鍵を受け取り、礼は忘れない。


「備品は好きに使っていいから。でも、道場は汚すなよ」

「汚すかっ!」













      …













「それではシロウと。ええ、私としては、この発音の方が好ましい」




 目の前に御座しますは、少女の姿をした畏れ多き騎士王。
 彼女は眉一つ動かさず、静かな声でそう言った。返答に窮する。

 ……どうして、そう、さらりとトンでもないコト言うかな、この娘は。

 おそらく他意はない。
 外人のセイバーにとって、ファーストネームで呼ぶのは普通の感覚なんだろう。
 が、それとわかっていても、易々と聞き流せないが、健全な男子であるが所以の悲しいサガである。

 一言で言うと、衣装は偉大なのだ。
 正体が何であれ、その姿のままじゃ、意識するなというほうが無理というモノだろう。
 加え、比較対照がハサンだけなのであまり参考にならないかもしれないが、セイバーは妙に生々しい。
 霊体と説明されても、首を傾げたくなるような強い存在感を持っている。



「そう身構えずとも大丈夫です。危害を加えるつもりはありません」

 無言の空気を払拭せんと、セイバーが介入する。
 それは誤解だ。誤解だけど―――
 情けないことに、当のセイバー言われて初めて身の危険を悟り、背筋が凍った。

 ―――弓道部の道場。
 俺たちの声、足音、そしてやけに響く心音だけが世界を構成するすべて。
 二人だけだとやけに広く、外界から隔絶されたような静寂が降りていた。
 ……そう、完璧な人払いの状態にある。

 人気のない密室で、女の子と二人きりというシチュエーションは素晴らしい。
 しかしその「女の子」は、俺の命を奪うかもしれない<サーヴァント>でした。

 ああ、まったく……
 己の立場を考えれば、普通、憂慮すべきは後者だろう、と。
 朝、ハサンに「慎重な行動を」と釘を刺されておきながらコレだ。
 俺は、あまりにも悠長な脳を、一度、真剣に問い詰める必要がありそうだ。



「―――ですから、ご安心を。
 付け加えるなら、護衛するように、とも、リンから指示を受けています」

「へ? どういうこと?」

「それを今からお話するために、この場を設けました」

「……そ、そうか」


 遠坂が何を考えてセイバーを俺のクラスに送り込んだのか、子細はわからない。
 しかし、確実に言えることが一つある。
 これはデキレースだ。
 立案、遠坂。
 実行者、セイバー。
 詰まるところ、俺の逃げ場は用意されていない。
 セイバーに対する苦手意識から早々に脱却して向かい合わなければ、これからも延々流されるままで終わってしまう。
 それは望むところでなく、いいかげん、覚悟すべきだろう。さしあたり、


 きゅるるるる〜


 腹が鳴った。
 誰の腹であるかは、本人の名誉のために、敢えて指摘しない。


「ま、なんだ。取り敢えず飯にしよっか」


 持参した弁当を広げる。
 セイバーからの返答はなかったが、代わりに行動はきわめて迅速だった。
 道場の板の間にちょこんと正座し、セイバーは神妙な面持ちで一点を見据えていた。
 そして俺が箱を並べ始めると、セイバーの視線はネコ科の動物の如く追尾を開始する。
 その度に、頭頂部に乗っかっている跳ねた髪の一房が、ちょこちょこ揺れた。
 面白い。
 まるで運命に導かれるように作り過ぎてしまった弁当は、このためにあったのか。
 見た目の年齢相応、いや、それ以下の反応があまりに微笑ましかったので、思わずちょっと意地悪してみたくなった。


「ハサンに聞いたんだけど、サーヴァントって魔力を糧にするから、メシ要らないんだったな」

「なっ―――!」


 プルプル震えるセイバーを一時的にだが無視して、てきぱきと昼飯の準備を続行し終わらせた。

 ―――そういや、遠坂のヤツ、今頃、何してるんだろうな……













      …













 寒気が吹き咽ぶ穂群原学園校舎の屋上。
 其処で一人の少女が仁王立ちしていた。
 真冬の最中、ここで昼食を取ろうなどといった酔狂な生徒など存在していようはずがない。
 故に一人…………否、賓客はもう一人いた。
 それは正しくは人ではないモノ。
 少女がじっと威嚇する先に、黒衣の異形が起立していた。


「私に協力してもらうわよ。以後、口応えは禁止」

「何故そうなる!」


 ハサンは即座に反論するも、何処となく弱い。
 もともと小さいが、黒衣を風に棚引かせている背が殊更小さく見える。
 それは少女があまりにも漢らしいからだ。


「面倒だから説明は省きたかったんだけど、ま、いいわ。
 セイバー、あの子ね、強いし真面目だしカワイイし、いい子なんだけど、ちょっと融通が利かないのよね。王さまだから。
 で、その点、アンタは逆に得意でしょ、セコくて賢しいの。
 探索とか隠密行動とか、そういうのに関してはアンタの方が適任だから、私が利用させてもらう。これが答え」

 酷い言われようだが、小手先の仕事が得意なのは事実なので、その件に関しては異存ない。
 反論は別のところにある。

「だから、どうしてわたしが敵のマスターの協力をしなければならないのだ?! わたしに何の得になる?!」

「あら、そっちか。アンタのことだから、とっくにわかっていると思ってたんだけどね。
 ホントはわかってて、すっ呆けてるんでしょ。違う?」

 凛は、士郎が命名した、いわゆる「あくまの微笑み」を浮かべて、これに答えた。
 仮面に覆われていて窺いようがないが、もしハサンがその内側で表情を作っているとしたのなら、きっと微妙な渋面であるに違いない。


「別に無理に合わせる必要なんて無いのよ。私に強制力なんてないんだし。
 でも、そうね……、例えば不意に他のサーヴァントに襲われて、うっかり私が死んじゃったり。
 そうでなくても、偶然、たまたま偶然、横から飛び出してきたトラックに跳ねられてでもして、この世とバイバイしたとしたら。
 今セイバーと一緒にいる、アンタの大事なマスターは、どうなっちゃうのかしらねー」

 ほれほれ、と凛は笑う。
 そう、セイバーを学校に連れて来た理由がコレだった。
 言わば人質交換。もし凛に何かあったら、士郎の身も只では済まないだろう。
 セイバーを自分の所ではなく、敢えて士郎の傍に置くことで、ハサンによる暗殺の危険性を無にする。
 アサシンはマスターの人命守護を優先すると、これまでの観察で推測できたからこその策だった。
 一見、無茶苦茶のようでいて、緻密な計算がそこに働いている。
 正体が知られてしまっている凛にすれば、四六時中警戒するよりも遥かに負担が少なかった。
 そして、あわよくばハサンを利用しようという腹積もりなのも、凛が凛である所以であろう。



「う゛ぅぅ〜〜〜ぅ、それにしても寒いわねぇ〜。ココしかあてがなかったから仕方ないんだけど、生身にはちょっときついわ。
 あっちの二人も人目を避けなきゃならないのは一緒なのに、いったい何処にいったのかしらね」

 ハサンからの返答を待たず、凛は季節に恨み言を吐く。

「そうだ。ちょっと自販機までひとっ走りして、あったかいモノ買ってきてくれない?
 出来れば紅茶がいいけど、無かったらコーヒーでもお茶でも何でもいいわ。でも、缶入りのおしるこだけはやーよ」

 と、財布から小銭を取り出す。

「なぜ、わたしがそんなことを!」

「あら不満? しょうがないわね。今回だけは特別サービスで、アンタにも奢ってあげるわ。滅多にないことなんだから感謝しなさい」

「だから―――!」

「う゛ぅぅ〜〜〜ぅ、寒い寒い寒い、さ、む、い、―――――― 凍死するかも?」

 勿論そんな程度のことで凍死するわけがないが、ハサンが己が主の命を天秤にかけてまで逆らえる筈もなく、潔く承諾するしかなかった。



「くっ……了解した。地獄に落ちろセイバーのマスター」














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