小鳥の囀りは既に無く、窓から零れる強めの日差しの中で、俺はゆっくりと覚醒した。
 時計を見ると、もう時刻は午前10時を少し過ぎたあたりを指している。
 日曜日であるとはいえ、一般的に早起きな普段の俺にしては、随分と遅い目覚めだったと言えるかもしれない。
 余程疲れていたのだろう。
 昨夜は、衛宮邸の自室に戻ってきて直ぐ、倒れ込むように床に就いた。
 それから夢一つ見ずに睡眠を貪り、こんな時間になってしまったのである。

「ん……」

 休眠していた脳に血が通い始め、次第に五感が明け行く。
 そこで、視界の中腹に、黒くてぼんやりとしたものが映っていることに気づいた。

―――幽霊? 朝なのに?

 未だ混濁する意識がそれを見止め、内に問う。
 答えが出る間もなく、ソレは声をかけてきた。

「――― むっ、お目覚めか、士郎殿」

 幽霊ではないが、幽霊に等しき存在 ――― 黒くぼんやりとしたものの正体はアサシンのサーヴァント、ハサンだった。
 意識を強引に揺り起こしたところで、昨夜の出来事を思い出す。

 セイバー、バーサーカー、アサシン……そして、学内で見るのとは違う、魔術師然とした遠坂。
 皆、聖杯を巡る椅子取りゲームの駒たちであり、その中には俺自身も含まれている。
 そして、月下の死闘。
 それは、バーサーカーとそのマスターの死という形で終わった。
 一晩経ったからといって、容易に忘れえぬものではなかった。
 日常と呼ぶべき場所にハサンがいることは、それだけで否応なしにそれが現実であることを喚起させる。
 目前のハサンは、俺にとって、この争いにおける唯一無二の相棒<サーヴァント>だった。
 自覚しなくてはならない。
 好むと好まないに関係なく、聖杯戦争の狼煙は既に上げられているのだ。

「ああ、ハサン……、お ―――」

 何気なしに朝の挨拶をしようとして……、一瞬で目が覚めた。
 目覚めたばかりということは、まだ仰向けの状態。
 つまり。

「――― はよう。いきなりだけど、どうしてそんなところに?」

 と、俺は訊く。
 ハサンは天井裏から顔を出していた。



「……………………」

 何故そんなところにいるのか、当然の疑問である。
 ハサンの容貌は前日と変わらない。
 全身を覆う黒いローブと、白い髑髏の仮面という、中世の暗殺者スタイルである。
 ちょっとしたホラーだ。
 日中だからまだしも、夜更けに髑髏と目が合ったりなんかしたら、子供は泣く。
 事実、英「霊」であるわけだし。
 さすがに泣きはしないが、いつもこうオカルト的だと心臓には良くないと思う。
 だから、理由を訊ねるのは自然なことだった。

「夜のうちに屋敷を検めていたのだ」

 と、事も無げにハサンは答えた。
 ……どうやら、そういうことであるらしい。
 見回ったあげく、潜むには天井裏がいちばん、と判断したようだ。
 夜間の護衛は、今後もその位置をデフォルトにする、とさえハサンは付け加えた。

 はあ、と肩で息をつく。
 言いたいことは多々あったが、どうにも言い返しづらい。
 表情は相変わらず窺えないものの、微妙に満足げだったから。

 理屈はわかる。
 常識的に考えて、真上というのは注意を向け難い。達人レベルでも同じことなのだろう。
 ハサンはガチで攻撃を受け止めるようなタイプではないから、侵入者よりも先んじて仕掛け、攻撃そのものをさせないようにする。
 不意打ちを、更に不意打ちで迎撃するわけだ。
 忍者をイメージすると分かりやすい。ここは典型的な日本家屋であるから、利に適っている。
 だからって、納得できるわけじゃないけど。
 いくら使い魔の類だからと言ったって、天井裏に押し込めるような真似はできない。
 魔術師としては間違っているのかもしれないが、自分の意思で行動し、こうして話すことができる相手を、道具と割り切るのは無理だった。
 昨夜は、適当に部屋を使ってくれと告げただけで、放って置いた俺にも責任がある。
 このあたりのこと、ハサンはとても融通が利きそうもないし。

「? ……士郎殿、どうかなされたか?」

 黙ってしまった俺に、ハサンが真剣な面持ちで伺いを立ててきた。

「――― いや、何でもない。それより、これから朝食にするけど、ハサンはどうする? 何が食べたい?」

 ハサンの寝床は後で検討するとして、この場は取り合えず、建設的な提案を口にした。
 昨夜見たセイバーは霊という感じはせず、問題なく食事を取りそうだが、ハサンはちょっとよくわからない。
 たぶん、サーヴァントなので同じだと思うが。
 で、食べるとしても、いったい何が好みなのか。
 昨日今日のことなので食材は限られているが、和洋中の傾向ぐらいは選別して作ることができる。
 カタカナ名前なので、やはり洋食だろうか。
 容姿でそれを察するのは不可能に近いため、訊ねたのだが ――――

「無用。サーヴァントは魔力を糧とする故、食事を取らずとも活動に支障ない」

「―――― む」

 断られてしまった。
 食事を愉しむということを知らず、まるで電気かガソリンのように、ハサンは言う。
 そうか、サーヴァントに食事は要らないのか……
 なら、ハサンはそう答えるだろう。らしいといえばらしい返答だった。
 だが、それでわかったことが一つある。
 逆説的に考えると、要らないだけであって、食べる行為は可能である、と。

「―――ハサン、やっぱり飯を食おう」

「……士郎殿、話を聞いていたか? わたしは要らぬと答えたつもりだが」

「でも、食べることはできるんだろ? だいたいのものは作れると思うからさ、たぶん」

「…………………」

 沈黙が降りた。程なくハサンは次の言葉を連ねた。

「やはり食事は不要。今後もわたしの分は用意せずともよい。では、後ほど」

 そう言い残して、ハサンは消える。
 呼びかけても返事は返ってこない。
 空気の揺らぎ、物音、何一つ存在を感じれる要素は見当たらず、完全に取り残されてしまった。
 こうなると、どうしようもない。
 たしか、アサシンの特殊技能は"気配遮断"であったはず。
 サーヴァントを対象に掻き消すほどの気配を俺が感じ取れるはずもなく、諦めるしかなかった。
 深く息を吐いてから、もうだいぶ日が高くなった空を見上げる。
 なかなか前途は多難そうだった。










   Faceless token.     05 / Naked









 セイバー、
 ランサー、
 アーチャー、
 ライダー、
 キャスター、
 アサシン、
 バーサーカー。

 これらが聖杯が招き寄せた七つの器。役割<クラス>という殻を被った英霊たち。
 このうち、アサシンはハサンで、セイバーは遠坂のサーヴァント、バーサーカーは既に倒した。
 すると残りは、

「ランサーとアーチャーとライダー、それにキャスターの、計四体ということになるのかな」

 当然とも言える答えを口にした。

「いや、そうとばかりは言えぬ。確かに基本となるクラスは以上の七つであるが、これらに当てはまらない特殊なクラスが召喚される場合もある」

「――― むう。じゃあ、当てにならない、ってことか?」

「基本として押さえておくのは無駄ではないだろう。入れ替わりがあっても、せいぜい一つであるからな。
 気をつけねばならぬのは、相手のクラスが限定されるからと過信して、能力の推定を狭めてしまうことだ。
 実地で把握し、円転自在に応じて、そのように対処するしかない」

「……なるほど。難しいものなんだな」





 朝食兼昼食を終えて後片付けのあと、今後の方針を話し合うため、道場に移動した。
 ただ話すだけだったら、リビングだって廊下だって出来るのだが、気持ちの問題がある。
 気を引き締めて真面目な話をするなら、家だとやっぱり道場だろう。
 示し合わせたわけではなかったのだが、ハサンは先回りして、当たり前のように道場で俺が来るのを待っていた。
 聖杯戦争についての談義が始まる。
 はじめは昨夜に遠坂が話してくれたことのおさらい。それから、すぐに具体的な戦術論の話になった。


「士郎殿、この際だから、はっきりと言っておこう」

 あらたまってハサンが告げる。

「能力において、わたしはサーヴァントの平均値よりも劣る。
 最弱と定義されているのはキャスターであるが、それは身体能力に限ってのこと。
 キャスターは英霊になるまでに至った魔術師でもあり、戦闘能力は決して劣るものではないだろう。
 比べ、わたしはせいぜい、気配を隠せる特殊能力があるぐらいなものなのだ」

 それは謙遜ではない。
 ハサンは些か卑屈なところはあるが、これとは無関係。自己に対する冷徹な分析をもとに主張している。
 こういうことで、ハサンは嘘をつかない。

「―――さて、以上のことを踏まえた上で、敵が自身より白兵戦で優れている場合、士郎殿なら如何とする?」

「それは―――」

 昨夜の死闘が、まさしくそんな状況だった。
 皆がそうだとは思いたくないが、セイバーやバーサーカーは、軽く俺の常識を凌駕する強さだった。
 このとき、ハサンはどう対処していただろうか。

「―――それは、もし白兵戦を挑んで負けるのが分かっているなら、正面向かって戦わないかな。
 逃げるか、何とか勝てる方法を考えるか、しかないと思う……」

「そう。それがわたしの ――― 我らの戦い方である。
 あいにく事前の権謀術数を張り巡らすには、わたしの手駒が少なすぎるが、代わりに気配遮断という武器がある。
 これをうまく活用し、相手に不利に、自分に有利な状況を作り出し、誘い込み、戦力差を縮めることが成すべき戦術となる」

 つまり、頭を使え、ってことか。
 まあ、生き延びるにはそれしかないだろう。

「それに、力で劣るからといって、倒せないというわけではない。
 我らには"宝具"がある。如何なサーヴァントであれ、必殺の機会は皆無ではないのだ」

「――――宝具?」

 ああ、思い出した。
 たしか遠坂が、ハサンの宝具を訊いておけ、と言っていたっけ。
 英雄とその武装は一つ。それぞれが強力な武具を携えており、それが“宝具”であると説明を受けていた。
 サーヴァントのシンボルであり、切り札である、と。

「ハサンの宝具っていうと、やっぱり、あの長い腕?」

「うむ。これのことであるな」

 黒い包帯が床下に落ちる。
 と、黒衣の隙間から枯れ木のような細い腕が伸びて、ハサンはそれを掲げた。
 予想通り、勝負を決した、あの不吉な手だった。

「――― 妄想心音ザバーニーヤ。これがわたしの宝具であり、この真名を開放することで発動する。
 効果は二重存在の投影。対象を解析して作り上げた偽者を本物と同期・共鳴させ、これを潰す」

「……うーん、難しくてよくわからないなぁ……」

 昨夜もそうだったが、こうして説明を受けても、攻撃のプロセスがピンとこない。
 気が付くとハサンの長い右手に心臓が握られており、何とかなっていた。

「ふむ。過程を省いた上で簡単に説明すれば、相手に触れずに相手の部位を破壊できる、とでも言おうか。
 触れないのであるから、あらゆる防御が無意味。故に必殺である」

 ……なるほど。へんに回りくどいのはこのためか。それって、

「それって結構、凄いんじゃないのか? 本当の"必殺"だし。ほとんど無敵に聞こえるけど……」

「……いや、これがそうでもない」

 腕を折りたたみ、再びローブの内側へしまいながら、ハサンが言った。

「性質上、攻撃対象は常に一体。純粋な破壊には意味をなさず、当然のことながら、複数を相手にすることはできない。
 しかし、何より問題なのは、隙が大きすぎることなのだ、士郎殿。
 ――― 宝具の真名を開放する。偽者を作成する。偽者と本物を共鳴させる。偽者を潰す。
 攻撃が完了するまでには、これだけの行程が必要としてしまうのだ。
 加え、魔力を宝具に集束しなくてはならぬため、気配を消すことはできず、わたしは完全に無防備となる」

「……そっか。絶対の武器ってわけじゃないんだな。発動してしまえば勝てるけど、その状況に持っていくまでがたいへん、と」

「如何にも。そのような事情がある故、短剣ダークの投擲で牽制しつつ、宝具発動の隙を狙うのが、わたしの基本的な戦闘スタイルになる。
 ――― それに、必殺の宝具を持っているのは、わたしだけではない。どのサーヴァントもその機会を窺っている」

 ……これで何となく、つながった気がする。
 真名が分かれば、その宝具の性質も知れることとなる。
 だから、名は隠し隠され、その読み合いが重要になってくるわけだ。
 あの場は何となく頷いていただけだったが、遠坂が驚いたり怒ったりしてたのは、常識的にもっともな理屈だった。

「まあ、戦うのはわたしの役目であるから、戦術レベルのことについては任せてくれれば良い。
 次に今後の対策を ――― 此度の聖杯戦争における我等の方針について話し合うこととしよう。
 確認するが、士郎殿が戦うのは争いの調停のためであり、自らが進んで敵を狩り歩くことはしない、と、そうであるな?」

「あ、ああ……、そのつもりだ。でも、本当にそれでいいのか?」

 話を聞けば聞くほど、ハサンが"暗殺者"であるということがわかる。
 在り方がどうというのではなく、戦い方があからさまに個だけを対象とした"暗殺"であるのだ。
 相手は襲われて初めて気づく、っていうのが理想か。
 それを可能とする能力を持っている。
 とすると、俺が示した方針は、ハサンの定石を随分と狭めることになるのだが、

「問題ない。参戦し、生き延びるつもりがあるのなら、辿り着く場所は、追って同じところ」

「ああ、それはもちろん。俺だって無駄に死に急ぐつもりはないよ」

 主に忠実ということだけでなく、ハサンはハサンなりに何かを納得しているようだった。
 それなら、俺の方からは何も言うことはない。
 暗殺に徹するのが一番いいのは理解しているけど、やっぱり、理由もなく人間を殺して回るなんてことは、俺にはできない。
 相手が、その覚悟がある魔術師であるとはいえ。


「―――して、話を戻すが、これを踏まえた上で具体的に、これからどうするかを決めねばなるまい。
 差し出がましいと思うが、わたしから提案がある。よろしいか?」

「差し出がましいなんて、気にする必要はないよ。俺のほうがずっと素人だし。言ってみてくれ」

「ふむ。では申すが、わたしは"何もしない"ことが良いように思う。
 聖杯戦争に関係なく、普段の日常が士郎殿にもあろう。それを、何事もないかの如く繰り返し、時をやり過ごしてもらう」

「へ? あ、いや、それは願ったり叶ったりだけど、どうして?」

 何かとんでもないことを提案してくるのではないかと覚悟していたのだが、逆に拍子抜けするぐらいの話で、正直、戸惑う。

「失礼だが、士郎殿は魔術師とはいっても、見習い程度の段階であるな。
 あれだけ秀でた魔術師メイガス ――― セイバーのマスターが近くにいても、これまでそれと気づかなかった程に」

「――――」

 ぐ……たしかに俺は半人前で言い返しようがないのだけど、こうもはっきり言われてしまうと、やっぱり少し傷つく。
 そんな俺の反応を意に介さず、ハサンは言葉を連ねる。

「――― しかし、通常なら嘆くところなのだろうが、わたしが相棒ということなら話はむしろ僥倖であろう。なるべくしてなった主従といったところか」

「……? どういうことだ?」

「性質上、わたしの活動には支障はないが、士郎殿が外部に漏らす魔力量はきわめて微弱である。
 昨夜、敷地内を探索したが、魔力の残滓は土蔵に僅かに残るぐらいで、他は皆無に等しい。屋敷の結界も別人が張ったものだ」

 結界?……そんなものがあったなんて知らなかった。たぶん親父だろう。

「――― 士郎殿は魔術師の証とも言える魔力を一切残していない。これは同時に、他のマスターに気づかれないということでもある」

「……ああ、何となくわかってきた。ハサンも気配遮断の技能があるし、俺たちは黙っていれば、他の連中にバレないんだな?」

 ハサンは静かに、だが、確信を持って頷いた。

「何もしないまま聖杯戦争の終わりを待つなどという選択肢は、普通あり得ない。
 マスターとサーヴァント同士は近づけば感応するものであるゆえ、皆、先手を取るために探索する。そこに、隠れるという選択肢はない。
 だが、我らに限っては、その例外となり得る。事実、セイバーの主は、わたしが前に出てくるまで、士郎殿がマスターであると気づかなかった。
 聖杯の意思か、それとも只の偶然か、組み合わせの妙というやつであるな」

 なるほど。ちょっとずるい感じはするが、聖杯戦争を生き延びるには最良の手段であるように思える。
 ただ、話しを聞いていて、ひとつ穴があることに気づいた。

「――― でも、遠坂は知っているぞ。そりゃ気づかなかったかもしれないけど、今はハサンの名前も、宝具だって見ている。
 たぶん、調べればすぐわかることだろうから、この家のことだってとっくにわかっているはず。それって拙くないのか?」

「もっともであるな……しかし、では訊ねるが、士郎殿はあのセイバーとそのマスターが闇討ちをしてくるとお思いか?」

「…………思わない」

 俺に聖杯戦争を説明するぐらいに公正で、正道の魔術師足らんとする遠坂。
 心身を徹して、騎士であることを口外して止まないセイバー。
 単純な勘だが、あの二人は損得よりも優先する価値観を持っており、手段を選ばない戦いはしないと思う。
 仮に挑んでくるとすれば ―――

「正々堂々と正面からの白兵戦であろうな、向こうから接触してくる場合は。
 手は抜かない。だが、一般的に卑怯とされることはしない。あれらはそういう括りをする者たちだ。だからこそ強いのだとも言える」

 それって逆を言えば、隠れて聖杯戦争をやり過ごそうという俺たちが「卑怯」ということにならないだろうか。
 でも、ハサンのアサシンというクラスを考えれば仕方ないことか……
 セイバーがとんでもない強さだっていうのは、実際この目で見ているわけだし、俺にだってわかる。
 彼女と正面向かって戦えというのは、ハサンに死ねと命じているのも同然で、さすがにそれを強要することはできなかった。

「偶然会ってしまったら? 学校だってあるわけだし……」

「常にわたしが士郎殿の身辺を護衛する。もし偶々わたしが側にいない場合は、遠慮なく令呪を使って呼ぶと良い」

「呼んだあとは?」

「士郎殿を連れて、全力で逃げる」

「…………」

 まあ、それはそうか。
 聞けば聞くほど、泥沼なチキン戦法ではあるけど。

「思うに、セイバーとそのマスターは今回最強のカード。出来れば戦いたくないものだ。少なくとも今日明日というのは避けたい」

 遠坂たちと争いたくないってのは、俺も同意見だった。
 強いからというのもあるが、違う理由がある。
 おそらくそれは、遠坂が語ったところの「感情移入」というやつなのだろう。
 遠坂は少なからず、俺が憧れていた相手だった。
 学校で言われている優等生のイメージとはかなり異なっていたけど、やっぱり遠坂は遠坂だったわけで……その、じゅうぶん魅力的だと思うのだ。
 そして、セイバー。
 ――― 彼女のことを考えると、どういうわけか、心がざわめく。
 郷愁に似ているようでいて、それとも違う何か。
 簡単に一言で説明できる言葉があるのだけれど、今はまだ断言できるほど俺は容易くない。




「……オーケー。わかった。他にいい考えは浮かばないし、しばらくはそれで様子見しよう」

 こくりとハサンは頷いた。

「ひとつ付け加えておくが、『何もしない』といっても、本当に何もせず、無為に過ごすのとは違うであるぞ。
 いつでも戦える備えはしておかなくてはならない。そのための情報収集は必要だ」

「ああ、それはもちろん。けど、情報を集めるとして、どうやって探せばいいんだ?」

「マスターとて魔術師であり、サーヴァントはそれ自体が強大な魔力の塊。漏れた魔力は探れば ――― と、それはできないのであったな……」

「……すまん。半人前で」

「ならば、観察によって判断するしかなかろう。人や物、街の不自然な兆候を見つけ出して、相手を判別する」

「……そうするしかないよなぁ。運良くそれらしいやつを見つけたとしても、うまく把握できるかどうか……」

「ふむ。そういえばそうだったな」

 と、言うが早いが、ハサンがつかつかと俺の方へ歩み寄り、少し動けば触れるぐらいに接近してきた。

「士郎殿、目を閉じよ」

「……? 目を閉じるって、なんで」

 疑問を呈しつつも気圧されて、おとなしく指示に従う。目を閉じた。

「士郎殿がマスターであることの証を立てるため。現状把握の助けにもなる。集中を」

 そう言って、ハサンは俺の額に何か鋭利なものを押し当ててきた。
 ―――これって、短剣の先? って、そんなわけないか。
 細いが、感触は柔らかく、微かな熱を帯びている。触れているのはハサンの指か。
 気を取り直して、意識を静めた。

 ―――と。

「あ」

 脳裏に像が浮かんだ。サーヴァント能力、その仔細が把握しやすい形でまとめられ、データが提示されている。

「これは?」

「それはマスターとしての基本。あくまで士郎殿の基準で測られているため、どのような形であるかはわからぬが、それで把握できる。
 一度見た相手ならばその詳細を、個人差はあれど本人にとって最も判別しやすい捉え方で理解できるはずだ」

 アサシン ――― ハサンの情報があった。
 ハサンだけではない。穴空き箇所も多いが、バーサーカーやセイバーの項もある。
 なるほど。
 俺にわかる範囲での情報だが、これでマスターらしく振る舞うことができそうだ。





「駆け足ではあったが、わたしから話すことは以上だ。あとはそのつど解決することにしよう」

 義務を果たした安堵からか、ハサンは何処か柔らかい語調で言葉を閉めた。
 気が抜ける。
 ――― 聖杯戦争か。
 正直、異能の争いに参加するなんて、まだ実感というものが沸かない。日常からかけ離れすぎているせいだろう。
 だが、自分が後戻りできない場所にいることぐらい理解してる。
 俺の相棒たるハサンは、間違いなく目の前にいるのだから。
 と、
 ハサンを眺めていて、こうして触れるぐらい近くで並んでみて、俺はあることに気づいた。


 ……ハサンって、こんなに小さかったっけ?


 本当に自慢にならないことだが、俺は背が高いほうではない。
 その俺と比べても、余計に頭一つ分くらい以上低いところに頂点がある。
 比較対象があの規格外なバーサーカーだったのであやしいが、昨夜はもっと背が高かったような……


「ひょっとしてハサン、縮んだ?」

 半ば冗談気味に言ってみたのだが、

「うむ。どうやら縮んだようであるな」

 と、あっさり肯定する答えが返ってきた。

「へ?」

「別段、不思議なことではない。わたしには『自己改造』なる技能があることは知っていよう」

 ああ、そういえばさっき覗いた時にそんなのがあった。

「わたしは自己が希薄で、セイバーやバーサーカーのような確固たる英霊の力は持てない。
 反面、個を定義する境界が曖昧であるがため、他者を取り込み、その能力を奪うことができる。
 文字通り、自己を改造して他のサーヴァントに対抗する特殊技能だ。
 今わたしの中にあるのは、バーサーカーのマスターの心臓。
 サーヴァントではないので能力の増加は微々たるものだが、それでも魔力容量と対魔力が上昇している。
 そして、変化を生じるのは力だけではない。外形も影響を受ける場合もある」

「……なるほど、だから背が縮んだ、と。そういや、その声もあの子のものだよな」

 頷いたハサンを見る。
 全身を覆う黒いローブと、白い髑髏の仮面という外側は変わらないので、変化に気づかなかったのも道理だろう。
 仕方ないと思うのと同時に、ふつふつとある疑問が頭をもたげてきた。


 ――― ずばり、あの服と仮面の下はどうなってるんだろう?


「……? 士郎殿、どうかされたか?」

「あ、いや……、そんなたいしたことじゃないんだけど、その、どうして仮面で顔を隠しているのかなぁ、とか ―――
 ローブも全身を覆っていて外側の変化に気づかなかったわけだし……マスターとして、わからないことがあるのは拙いかな? とかなんとか……」

 我ながら支離滅裂。よくわからないことを口走っている。

「……隠しているわけではないのだがな。わたしは瞼を剥がし鼻を削ぎ唇を焼き、そうして顔を消して、誰でもなくなることでハサンになった。
 よって仮面は仮面にあらず。代用の顔といったところ。もっとも、今は変化している可能性は高いが……」

「そ、そうなんだ……ごめん、今のは忘れてくれ」


 無理に見せるように言わなくて正解だったか。
 暴き立てるような真似は、気持ちのいいものではないだろう。
 でも、怖いもの見たさ半分。
 一度意識してしまうと、中の人がどうなっているのか、ますます気になり始めてくるのも事実だった。

 ……やっぱり隠し事はよくないよな、せめて衣の下だけでも……

 まさか、実は中は空っぽで、頭と腕だけのデザインでした、なんてことはない……とも言い切れないが、


「気になる?」

 と、俺の葛藤を見透かしているように、ハサンが訊いた。

「……まあ、なんというか……」

 否定できなくて曖昧に答えてしまった。それは肯定しているのと同じ。

「――― ふむ。戦闘において姿を消すのはわたしの常套手段であるが、この場合は関係なかろう。
 マスターである士郎殿を相手に隠しているような状態になっているのは、信義に反するものであるな」

 こくこくと髑髏の仮面が上下する。

「いい機会であるから、この身を検めることにしよう」

 と、手をかけた。

「ぁ――――本当に、いいのか?」

「無論。見ても、あまり楽しくないと思うが ――― 」

 数瞬のためも置かず、ハサンは一気に、するりと体から黒衣を引き剥がした。
 そこから現れた姿は―――



「―――――――――――」


「……………………………」


「―――――――――――」


「……………………………」


「―――――――――――」


「……………………………」


「―――――――――――」


「……………………………ごめん」


 ……くっきり、はっきり見てしまった。
 思わず、謝ってしまう。
 困ると、とにかく反射的に頭を下げるのは、日本人の悲しい性とでも言おうか。

「……どうして謝る?」

 察してくれ。

「――― もうわかったから、着ていいよ。というか、着てくれ」

 顔をそむけつつ、言った。

「……そうか。やはり我が身は、士郎殿にとって見苦しいものであったか……」

「ち、違う。そんなことはないぞ、ぜんぜん」

 落胆。曇るハサンの顔を見て、とっさに打ち消す。

「ならばよし」

 腰に手を当て、何処か自慢げに、堂々と佇むハサンの中の人。
 わざわざ、そらした視界の方から回り込んで近づき、そんなことを言ってくれた。

 天然?
 ひょっとしてハサン、俺をからかうのに、わざとやってないか?

 こんなところ、誰かに見られでもしたら……ぞっとする。
 とくに、藤ねぇとか、藤ねぇとか、藤ねぇとか、藤ねぇとか、藤ねぇとか……

 ―――と。
 どう動いていいものか迷っていると、タイミングよく、アナクロな機械音が鳴り響くのが聞こえた。
 今どき黒電話のベルなんて、うち以外に考えられない。
 そして日曜日、この時間にうちにかかってくる電話なんて、心当たりがありすぎた。
 噂をすれば影……ってやつだろうか。
 それでも、この場の気まずさを打開する救いの手であるのは間違いない。

「電話だ。ちょっと出てくる」

 と、俺は急いで道場を離れた。





    …





 ……ったく。しょうがねえよな、あの先生は。

 軽く溜息を吐き出しながら、俺は受話器を置いた。
 仕方ない。弁当ぐらい持って行ってやるか。
 後でどんな逆襲が待っているか、わかったものじゃないし。
 ついでだから、帰りに遠坂が言っていた教会にも寄って行こう。

「どういった要件であったか?」

 後ろからついてきたらしいハサンが声をかけてきた。
 振り返ると、いつもの暗殺者ルックだった。
 少し安堵。

「虎が ――― 」

「虎?」

「ああ……いや、電話の相手は俺の後見人なんだけど、ちょっと頼み事をされて、これから学校まで出かけてくる」

 ハサンに振舞おうと思って作った卵焼きが、そのまま残っている。これを持って行けばいいだろう。

「ふむ。そうであったか。護衛は我が務め。外出するなら同伴しよう」

 と、にじり寄って来た。
 ……まあ、ハサンならば当然、そうするだろう。
 基本的には素直なんだが、こと自分の役目の範疇にあることに関しては、絶対に妥協しない仕事人気質なところがある。
 強く命令すれば従うかもしれないが、生半可な説得では譲歩は引き出せそうもない。

「――― でも、さっきの方針からすると、ついてくるのは拙いんじゃないのか?
 夜ならともかく、昼間でその格好は目立ち過ぎるぞ。俺、ハサンが着れるような服も持ってないし。
 向こうも人目につく事を避けるんだから、たぶん昼間は安全だよ。留守番しててくれ」

 戦闘スタイルとこれまでの話し振りからして、猪突猛進とは真逆、ハサンは理知的で慎重な性格であると見た。
 頑固で譲らない反面、理路整然とした意見には耳を貸す余裕を持っている。
 なので、きちんと文句つけようのない理由を説明し、ハサンには諦めてもらおうと思ったのだが、

「問題ない。霊体化しさえすれば、その危惧は無用となる」

「霊体化?」

「我らサーヴァントはもともと霊体。マスターからの魔力提供を受けて実体化している。
 霊体に戻ったサーヴァントは守護霊のようなもので、レイラインで繋がっているマスター以外には観測されない。
 その代わり物理干渉が出来ず、即時対応が不可な欠点はあるが、この場合は霊体で構わないだろう」

「それって一般人にハサンの姿が見えないってことだよな。そんな便利なものがあったのか……さっそくやってみてくれ」

「……いや、わたしの方からそれをコントロールすることはできない。
 実体化は魔力提供によって成される。ならば、霊体化はそのプロセスの逆。送り込む魔力をカットすれば、自ずと可能であるはずだ」

「そうか、俺がやらなきゃならないんだな……よし」

 意識を集中する。魔力よ途絶えろ、と強く念じた。

「…………………………」

 集中。
「…………………………」

 集中。

「…………………………」

 集中。

「…………変わらないようだが」

 ぜんぜん消えなかった。

「すまん……未熟で。漠然と『魔力提供のカット』と言ってもわからない。もっと具体的にやり方を説明してくれると助かる」

「…………………………」

「…………………………」

「……わたしの出身は、現世でいうところの『イラン』と呼ばれる国の地域にあたる」

 唐突にハサンは語り出した。

「――― 広く定義すれば中東、西欧とは異なる文明圏であるわけだ。当然、魔術体系も大きくかけ離れている。
 更に言えば、わたしのクラスはアサシン。キャスターではない」

「……ああ、つまり、わからない、と」

「…………………………」

「…………………………」

「……まあ、幸いにして、わたしには気配遮断の能力がある。
 日中とはいえ、ある程度なら一般人に悟られないように、士郎殿を護衛することは可能であるはずだ……」

「…………………………」

「努力はしよう」

「……そ、そうだな。頑張るしかないよな」


 ダメな二人だった。














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