―――白銀の夢を見る。 それは、冬が永住する遠い異国の、見たことのない景色だった。 大地は常に白い氷霧に埋もれ、空には青みを忘れて久しい亜鉛の雲。 寄せ集めの思い出に筋立てはなく、まるで走馬灯のようで。 人知れぬ山間の城で、訪れることのない春を、ひたすらに待ち侘びた日々。 舞台はいつも白銀の中にあって、夢見るままに待ち至る、誰かの記憶の欠片だった。 暗転。 男がいた。雪のヴェールの向こうに 記憶にあるよりも幾分か若い親父は、まったく見知らぬ土地で、見知らぬ老人と、らしくもない鉄面皮で言葉を交わしている。 子供みたいに落ち着かなくて、いつも笑っていた親父はそこに居らず、この白銀の世界のように酷く冷たい顔をしていた。 その子が見つめていることを知っているはずなのに、切嗣は此方へ一瞥もしない。 ……まったく、なんて違和感だろう。 切嗣の姿をしているのに、まるで切嗣じゃないみたいだった。 でも、間違いなくアレは衛宮士郎の父親、衛宮切嗣である。 ああ……、そして同時に、切嗣はその子の父親でもあった。 遺伝子の提供者であるというだけで、情が入り込む余地の無い砂鉄の関係。 わかっていた。 自分が道具であることを。 人の身で生まれなかった自分には、愛情なんて過ぎた代物であることを。 期待したことなんてなかった。 それが当たり前だった。 でも、 一度だけでいい。 偽善だっていい。 声を掛けて欲しかった。 抱き上げて欲しかった。 母が褒めた自慢の銀髪に、父にも触れて欲しかった。 だけど、それは叶わない。 これが今生の別れになるというのに。 やがて、 夢にはまだ続きがある。 異国の老人は厳重に布が巻かれた長い包みを取り出した。 切嗣がそれを受け取り、封を解く。 それで、ようやくこの夢の意味に辿り着いた。 ―――アレは 夢を夢と認識させているのは、それが"現実ではない"という消極的な否定にある。 では、現実とは何かと問えば、時間の連続性、不可逆の因果、周囲の反応から察する客観視、と、そんなところ。 絶対の根拠には成り得ないが、俺には致命的に傍観者である事の自覚がある。 意識と記憶は混濁していながら、自我は完全に剥離していた。 だから分かった。 ソイツも俺と同じモノを視ている。 俺が傍観者なのではなく、傍観者であるソイツに俺が同調している。 振り返る。 闇だった。 黒ですらない。 深さを感じる明度もない、―――空白。 でも在る。 そこに居る。 そう、アレは 長いあいだ俺と共にあり、俺の中で溶け、俺との境界を無くし、俺そのものとなった分身。 ソイツは探し、見つけたのだ。 膨大な記録の濫流の中で、俺に繋がるモノを。 借りモノでも、偶然でもなく、 ―――ああ、か細くとも"無"なんかじゃない。俺を求めたのはソイツなんだ。 願いはきっと見つかる。 Faceless token. 10 / Transfer 夢を見た。 寝起きの頭でぼんやりと思考を巡らす。 夢を見ること自体が珍しく、あっても大概はあの悪夢なのだが、今日は違っていた。 何か大事なことを知った気がした。 ただ、どうしても内容が思い出せない。 掴もうとすればするほど手ずから逃げていって、後に残るのは白い景色ばかりだった。 まるで砂漠に染み込む雨の如く、覚醒と入れ替えに何処かへ沈んでしまった。 「―――――――――」 諦め、溜息を吐いた。 ……まあ、そのうち思い出すだろう。 きっとまた、近いうちに似た夢を見る。 そんな気がした。 「さて……起きるか」 がばりと布団から体を起こした。大きく伸びをする。 外はまだ少し薄暗い。 時計を見ると午前五時半、少し前。 これなら朝の鍛錬をして、それから朝食を作っても、学校に行くまでまだ時間の余裕がある。 桜が起こしに来るよりも早く目覚めたのは僥倖だった。 朝も任せっきりっていうのは甘えすぎ。 いつも層々世話になるわけにはいかない。 ……先ずは朝飯の下ごしらえをして、それから朝の鍛錬かな。 名残惜しくなる前に布団を上げてしまう。 そして道場へ―――と、その前に、 「おはよう、ハサン」 「―――――― 四八、四九……、五十! ……っと」 日課終了。 夜の魔術訓練とは違う、普通の身体の研磨―――要は運動である。 親父に言わせれば、優れた身体能力を持つ事も魔術師の条件の一つらしい。 死地に面することの多い魔術師であればこそ、肉体の限界の把握と覚悟を律する心構えが必要となる。 もっとも、道場で行う身体の鍛錬は基礎的なものばかり。 腕立て、腹筋、背筋、スクワット等、これらを数セット繰り返すだけの部活動レベルのトレーニングだった。 親父がいた頃はよく手合いをしてくれたものだが、自分一人だと所詮はこんなものだろう。 首筋にかけたタオルで額を拭き、道場の真ん中に胡坐をかいた。 ……案外、気にならないものだな。 道場の端にはハサンがぽつんと立っている。当然のように。 トレーニングの間中、無言でじっと見つめられていた。 その事に不満というか、自意識過剰に陥らなかったのは、我ながら不思議だった。 聖杯戦争に関わるようになって三日目。 実質、まだ三十時間と経っていない。 だが、主従関係を構築して以来、第三者がいる場合を除き、ハサンは始終、俺にべったり張り付いていた。 気にならないのは、そこにいることが自然と感じられるようになった所為だろうか。 もちろん、ハサンの気配遮断能力のおかげもあるのだろうけど。 「士郎殿、鍛錬はもう終わりか?」 「ああ、朝っぱらから疲れきっても仕方ないし、このぐらいにしておく」 折を見て話しかけてきたハサンに、鍛錬が終わったことを告げる。 すると、ハサンは「ふむ」と頷いて、トコトコ近づいてきた。 俺は座ったままだが、背丈が低い上に猫背なハサンが相手なので、あまり見上げる姿勢にはならない。 「―――して、今日のこれからの予定はどう致す?」 「んー、そりゃ、先ず朝飯食って、それから学校――――――って、そうか、学校!」 『今まで通り学校に行く』 議論になんてならず、これは意思確認である。 マスター同士の戦いは人目を避けるもので、よほど人気のないところに出向かない限り、仕掛けられる事はない。 もちろん意味もなくひとりで出歩くのは危険だが、俺たちの場合、素面では他のマスターに気づかれ難いという特性があった。 したがって、目立つ真似はしせず、なるべく日常の生活を続けて、不審の目を避けることが安全のいちばんの近道となる。 これは昨日の朝に打ち合わせした内容。 ハサンから反対の声はなく、すんなりと学校行く案は二人だけの議会を通過する。 決まったところで、問題となるのは次の点だ。 「……学校でハサンを連れ歩くのは、やっぱり無理だよな」 「士郎殿の話からすれば、難しいと言わざる得ないだろう」 懸念事項は俺が学校に行っている間のハサンの処遇である。 基本、俺が望む望まないに関係なく、ハサンは護衛する事を日常業務に位置づけていた。 しかし、俺が学校へ行くとなると、それは果たし難い。 弓道部や町を少し出歩く程度ならばハサンの気配遮断能力で何とかなるものの、さすがに全校生徒が相手では、やはり分が悪い。 軽く考えていたが、日常生活と聖杯戦争への警戒を両立させるのは、往々にして厄介なモノだと知る。 そういえば ――― 「遠坂のヤツはどうするんだろうな……」 俺ともう一人、境遇が近い女子生徒の事を思い出した。 姿かたちはハサンより大人しいとはいえ、セイバーに気配遮断能力があるわけもなく、隠す困難は俺たち以上だろう。 でも、昨日の捨て台詞、その時は気づかなかったが、明らかに自分が学校へ行く事を当然とする口ぶりだった。 置いて行くつもりなのかな? 垣間見た遠坂の実力なら、それもアリな気がするが――― 「霊体化させるのだろう」 と、ハサンが即座に突っ込みを入れた。 あ、そっか。 待機状態が前提になるとはいえ、"霊体化"してサーヴァントを一般の目に晒さないで済む方法があったのだ。 ……まあ、思い出したところで、俺たちには出来ない話だったりするわけで。 こんな事なら、意地でも遠坂に聞いておくべきだったかもしれない。 「多少の危惧はある。が、引き篭もるわけにもいくまい。結局、出来る範囲で何とかするしかないな」 面白味はないが、もっともな結論をハサンは口にして、それに俺も頷いた。 妥協というか、他にどうしようもない。 じっとしていたって危険がなくなったわけじゃなく、むしろ、聖杯戦争が始まった途端に休むなんて、自分がマスターだと教えているようなものだ。 それに、いるかも分からない敵の気配に怯え、外の情報を自らの手で遮断してしまうのは下策もいいところ。 木を隠すには森の中というやつで、もともとがそういう主旨なのである。 「さしあたり、登下校を共にするのは無理であるが、間隙を縫って、士郎殿の学び舎に忍び入る事ぐらいは可能だと思う。 後は、なるべく人気がない場所に赴かないよう、士郎殿には気をつけてもらうしかない。よろしいか?」 「むう、それだとハサンとも接触できないんじゃないのか?」 「たしかに。だが、多少の意思疎通は念話でも出来る。無理して危険を呼び込む必要はない。 可能な限り近いところで待機するつもりであるが、それも実際、校舎へ赴いて場所を検めなくては確実な事は言えない。 常からわたしの目から離れている可能性を覚悟し、慎重に動くのが最善かと心得る」 ハサンに頼り切るのではなく、マスターの自覚を持って行動するのは当然の心構えだ。 「そうだな、それで行こう」 「―――但し、もしもの時は、遠慮なくわたしを頼って欲しい。 何はあっても、先ずは士郎殿の生命が大事。異変があったら躊躇いなく令呪を使うこと。決して無茶はしてくれるな」 ハサンがぴしっと人差し指を立てて念を押す。 言われなくたって分かっている。俺だって好き好んで死地に飛び込む真似をするつもりはない。 どうも、必要以上に俺に対して過保護な気がするのだ、ハサンって。 そんなに俺は危なっかしいヤツに見えるのだろうか? 「まあ、脅すつもりなどなくて、士郎殿には御身の安全だけを考えてもらえれば、それでよい。あとはわたしが何とかする。 奇妙な話、こういったケースでいちばん警戒しなくてはならない相手は、アサシンのサーヴァント。 当然、その"アサシン"のマスターである士郎殿は考慮外に置くことができ、その点に限っては他のマスターよりも有利な立場であると言える。 暗殺対策で、本当に戦々恐々としているのは、素性が我らにばれているセイバーのマスターだろうな」 「……………」 ハサンは、どうもセイバー組というより、遠坂を個人的に挑発している節がある。 その……、出来れば穏便に。 少なくとも遠坂とセイバーは外道な事をしないと信じられるから、面等向かって敵対したくないというのが正直な感想だ。 過度の期待をしてはいけないと思いつつも、外部に味方を求めるとしたら、今のところ、あてになりそうなのは遠坂しかいなかった。 個人的な感情があることも―――まあ、否定はしない。取り敢えず、 「―――よっと……」 大きく背伸びして、立ち上がる。 「話も一段落したことだし、そろそろ朝飯でも作るか」 さて、と、 「ところで、ハサン―――」 何気ないふうを装って切り出す。が、 「却下」 「うっ……、まだ何も言ってないんだけど」 「言わずとも分かる。朝食の誘いであろう?」 「まあ、そんなんだけどさ……」 「だから、却下」 「むう」 ちなみに昨夜も食事の誘っているのだが、素気なく断られている。ハサンは頑なだった。 「なんでさ……?」 「昨日から説明している通り、わたしに食物摂取は必要ない」 「そりゃ、わかるけど―――」 ……と。 玄関のチャイムが鳴った。 藤ねえにそんな律儀さはないから、間違いなく桜。つまり、 ―――時間切れ。 … ささ身の野菜巻き焼き、鮭の照り焼き、ほうれん草のおひたしと、それから大根のみそ汁。 朝にしては、じゅうぶん満足のいく献立だった。 桜と二人、向かい合わせで食卓に座り、こうして衛宮家の朝は恙無く始まる。 桜はもとからお喋りな方ではないし、俺にしたって何かを話しながら食べるような習慣は持っていない。 自然、食事時は静かになるはずなのだが、衛宮家の住人は残念ながら、もう一人いる。 それはひと時の合間の静寂に過ぎない。 俺はテレビに視線を向けた。 大体、朝に流れているものといえばニュース番組である。 画面には“ガス漏れ事故、連続”と大げさなテロップが打ち出されていた。 隣町である新都で大きな事故が起きたようだ。 現場はオフィス街のビルで、フロアにいた人間が全員酸欠になり、意識不明の重体に陥ってしまったらしい。 ガス漏れによる事故とされているが、同じような事故がここのところ頻発している。 新都を急開発した時に欠陥工事をしたからだ、なんて話もあがっているが―――、 「偶然の一致―――なわけないよな……」 そう片付けてしまうには、俺は事情を知り過ぎている。 一見、何事も無い平和な一地方都市の裏で、聖杯戦争なるものが行われていた。 無論、ただの事故である可能性もないわけではなかったが、タイミング的に出来すぎていた。 ……思い出すのは焼け野原。 否が応無しに関連付けずにはいられない。新都はアレが起こった場所だ。 だが、俺にいったい何が出来るというのだろう。 分かっているのは、ガス漏れ事故が聖杯戦争の所為かもしれない、ということだけだ。 調べれば、確証を得ることぐらいはできるだろう。 しかし、確証を得た後、どうする? サーヴァントがいたとして、戦うのか? 運が悪ければ、いや、高い確率で俺は―――死ぬ。 それはハサンが許さないだろう。 無策で突っ込むのは持っての他だ。 無力な自分に苛立つ。 もっと俺に力があれば――― 「先輩、どうしました?」 制服にエプロン姿のままの桜が声をかけてきた。 「あ、ガス漏れ事故ですね―――」 よほど俺が深刻そうに見えたのか、普段はニュースなどに関心なさげな桜もテレビに注視する。 「……気になりますか?」 と、訊いた。 「………………」 勿論、気にならないわけがない。 桜が思っているのとは、大分違うだろうが。 「そういえば、先輩って、新都でアルバイトしていますよね」 「してるけど、別にそんな大きな店じゃないよ。今のニュースみたいな事故は起きないと思う」 余計な心配はかけまいと言葉を選んだ。 「それより、桜の方はどうなんだ? このところ物騒だし、気をつけないと」 「あ、先輩、それならご心配なく―――」 前から薄々とは感じていたけど、 「―――ガスの元栓はいつも二回チェックしてますから安心ですっ」 ……桜も微妙にズレてるよな。 えっへん、と、ボリュームたっぷりな胸を強調して張る桜を見て、そう思った。 「ごっはん、ごっはん〜」 虎来襲。 玄関のチャイムを鳴らすどころか朝の挨拶もなく、さも当然のように真っ直ぐ食卓に座って、朝飯を食らい始める藤ねえ。 凄い勢いでテーブルに並べた献立を胃の中に入れていく。 「もう少し落ち着いて食べろよ」 無駄だと分かっていて言ってみたが、やはり無駄だった。 「はい、ごちそうさま。朝ごはん、今日もおいしかったよ桜ちゃん」 がたんと茶碗を置き、立ち上がる。 今日は殆ど俺が作ったのだが―――まあ、ろくに味わいもしない藤ねえにそれは問うまい。 「それじゃあ先に行くわね。二人とも遅れちゃダメよ」 「なんだよ、藤ねえ。桜と一緒に行くんじゃないのか?」 「今日はちょっと用事があるんで、早く行かなきゃならないのだー」 「用事って?」 「ないしょ。士郎、楽しみにしてなさいー」 言うが早いが、食後にも関らず全力疾走で、藤ねえは駆け抜けて行った。 「では、私も行って来ますね」 「ああ、気をつけてな」 藤ねえから遅れること、三十分。 ローファーを履き、玄関の扉を開ける桜。と、見送る俺。 弓道部の朝練があるので、桜は一般の生徒よりも早く家を出なくてはならない。 事情があって部をやめてしまった俺は、その一般の生徒の範疇なので、こうして見送ることになる。 一緒に登校しても構わないのだが、さすがに一時間近く早く学校に着いてもすることがない。 藤ねえはああ見えて弓道部の顧問だったりするので、普段はその二人で行くはずなのだが、どういうわけか、今日は用事があるらしい。 桜は学生鞄と弓の他に包みを持っていた。両手いっぱいの荷物になっている。 敢えて指摘はしないが、おそらく中身は昼の弁当。 朝食が終わって登校するまでにまだ少し時間の余裕があった桜は、台所に残って何かをしていた。 それが"何か"の正体である事は想像に難くない。 しかし、口にするのは浅慮な行動だろう。 包みの大きさは女子高生一人分にしては、やけに大きかった。 そう、藤ねえに隠れて目立たないものの、実は桜も意外に大食いなのだ。 親しき仲にも礼儀あり。 黙っておくことにした。 「そういえば、先輩、今日の放課後は何か用事がありますか?」 さあ出ようかという時になって、くるりと振り向き、桜が言った。 「ん? バイトは休みだし、今のところとくに何もないけど、それがどうかしたか?」 「あ、いえ……、そう、弓道部! お暇でしたら、たまには顔を出していきません? 美綴主将も喜ぶと思いますし」 「たまにって、昨日行ったけど……」 「え? そ、そうですよね……」 しょぼくれて項垂れる桜。 あれだ。美綴のヤツもそうなんだが、周りの連中はどうにか俺に弓を射らせようとしている気がしてならない。 俺は弓道とはすっぱり縁を切った。未練なんてない。 それに、桜の兄貴である慎二も、辞めたはずの俺が弓道部をうろちょろする事を快くは思わないだろう。 とはいえ、 「弓を持つ気はないけど、何も用事が無ければ、放課後に寄るぐらいはいいかな」 憮然と拒絶してしまうのも何なので、妥協ラインを提案する。 「―――! でしたら、ついでなので帰りに商店街に行きませんか? その ……、そろそろ食材を買い足さなきゃなりませんし」 「そのぐらいなら―――」 夕暮れの商店街なら人目も多いし、たぶん大丈夫。 俺がOKを出すと、桜の顔がぱあっと明るくなった。 じつに分かりやすい。 うん、桜には笑顔の方が良く似合う。 性格的に満開とはまではいかないが、そのぶん、優しくて柔らかい春の日差しのような微笑みだった。 こっちまで幸せな気分に浸れる。 荷物持ちぐらい、安いものだ。 「そ、それから―――」 「ん? まだ何かあるのか?」 せっかくなら全部言ってしまえと注視する。 「い……、いえ、何でもありませんっ! 行って来ます……!」 取り繕って、逃げるように桜は行ってしまった。 俺は背を見送る。 ……………………。 まあ、桜だしな。 深刻な話でもなさそうだし、藤ねえと違ってしっかりしてるから、気にしなくても大丈夫だろう。 弁当を持っていたことを思い出す。 まだ時間に余裕があるし、俺も作ることにしよう。 … 結論から言えば、ちょっと作りすぎた。 ちょっと? いや、かなり。 登校までの一時間をきっちり調理のために費やしてしまった。 「どうする、コレ?」 自問自答する。当然、何処からも解答らしき声は返ってこない。 つい熱中してしまい、その一時間たっぷり使った結果が、溢れんばかりの食料という形で目の前に鎮座していた。 放り出したままにするわけにもいかないので、ためしに弁当箱に詰めてみる……と、三人前あった。 「持って行くか……」 こうなってしまった以上、何とか消費するしかない。 ハサン、後で学校にも顔を出すというようなことを言っていたよな。 この弁当で再度、食事を促すのも悪くない。 ハサンも相当強情だが、俺もちょっと意地になっている。 なぜか、そうしなければならない気がするのだ。 たぶん受け取らないだろうが、その時はその時。 いつも勝手に人のオカズをさらっていく連中がいるから、残すような事にはならないだろう。 覚悟を決め、俺は三人分の弁当を包み、玄関へ向かう。 門の外に俺、中にハサンという図式。 この家は俺が最後になることが多いので、こうして朝、誰かに見送られるというのは随分と久しぶりだった。 ハサンは人間ではなくサーヴァントで、有体に言えば"幽霊のようなモノ"ではあるのだが。 「―――じゃ、行ってくる。ハサンも学校に来るんだろ?」 「うむ。そのつもりではあるが、状況次第であるため、過度の期待はせぬように。 常にわたしが側にいないことを想定して、慎重に行動なさられよ。 とくにセイバーのマスター、昨日のこともあるので、何か仕掛けてくるやもしれぬ」 う、思い出したくないことを。 「ともあれ―――繰り返しになるが、道中、お気をつけて」 桜や藤ねえに対しての定型句ではなく、これは本当に生死を憂慮する送り出し文句だ。 ゆっくりと噛み締めて頷く。 「――――――」 「―――? どうかなされたか?」 ……何だろう? 何か忘れてる気がする。 その所為で、最初の一歩が踏み出せない。 普段の行動を一からシミュレート。 学材は昨夜のうちに鞄へ収納済み。 ハンカチは桜がいつも制服のポケットに忍ばせておいてくれており、確認済み。 今日は三人分の弁当まで持参している。 ならば、水道、電気はきっちり止めた。 桜じゃないが、ガスはわざわざ二回チェックしていて、これでもない。 後は靴を履いて、玄関に出て、それから――― 「あ、そっか! 戸締りを忘れていた」 鍵を閉めることそのもを忘れていたのではなく、戸締りをどう扱うべきかを考え、決めるのを忘れていた。 俺が十年暮らした日常と違う要素―――この場合、ハサンがいる。 「屋敷の警護を問題にしておられるのか?」 「ああ、そこまで大げさなことじゃないけど、そういうことになるな」 時間差で家を出るハサンが今日、いちばん最後だった。 残っているのに鍵をかけるわけにはいかないし、かといって開けっ放しにもできない。 「それならば問題は無い。鍵などといった物理的装具に頼るまでもなく、この屋敷は安全に保たれている」 「え? そうなのか?」 「うむ。士郎殿は結界が張ってあることをお忘れか?」 あ、そういえば。 「士郎殿の先代が如何ような意図で張ったモノかは存ぜぬが、かなり強力な結界が屋敷を取り囲むように敷設されている。 性質は隠形。外的から身を隠す事と、察知し伝えることに長ける。 屋敷への侵入を試みる狼藉者が、それこそ人外でもない限り、安全と見て間違いない」 それに、結界をこえて押し入るようなヤツならば、そもそも鍵などあって無きが如し、と、そういうことか。 前から存在は知っていたが、不法侵入のプロとも言うべきハサンが誉め、信頼を置くぐらい完成された結界だとは知らなかった。 魔術師は自分の陣地・工房には結界を張るという。 俺の目から見ても、およそ魔術師らしからぬ親父だったが、このへんはセオリー通りだったようだ。 「でもなあ―――」 と、言葉を濁す。 安全なのはわかった。 けれど、開けっ放しというのは、どうしても気分的によくない。 「ま、悩むまでもないことだな」 俺は上着を探り、キーホルダーを手にする。ハサンに差し出した。 「こ、これは……?」 「見ての通り、家の鍵。ハサンに預けるから、出るとき戸締りをしてくれ」 「―――!」 結界の有無に関係なく、単純に、こうすればいいだけの話なのだ。 「わたしが?」 「当然。最後に家を出るのはハサンだろ?」 「し、しかし……、鍵というは士郎殿の財産を守るためのもので―――」 「いや、だからこそ戸締りはしっかりして欲しいんだけど……」 「………………」 なんか、微妙に会話がずれているな。どうしたんだろう? しばらく鍵とにらめっこしていたが、ハサンはやがて観念したようにそっと左手を伸ばし、受け取った。 ぎゅっと握り締めて、言う。 「……しかと承った」 「うん、頼むよ。じゃ、行ってきます」 数十メートル歩いて一度振り返ると、ハサンはまだ門の前にいた。 俺の視線にも気づかず、鍵をじっと見つめていた。 … 朝の空気はいたって平穏。 気を引き締めて坂道を下りた。 時刻は朝の七時半過ぎ、登校する生徒が一番多い時間帯である。 坂道は生徒たちで賑わっていた。 ふと、四方に目を配る。 ――― まさか、いきなりこんなところで仕掛けてくるなんてことはないよな。 ハサンにも脅されたが、遠坂が何もしないなんてのは考え難い。 学校一の美人と評判が高い優等生然とした遠坂と、感情剥き出しで怒鳴り散らしていた遠坂。 ……どちらが本性なのかは言うまでもない。 一成の言い分は殆ど聞き流していたけれど、本当に猫かぶっていたんだな、遠坂って。 あれはあれで、味わい深いとも言える。 もっとも、敵同士なので被害を被る側としては洒落にならず、当面、それを堪能するだけのゆとりはないけど。 話をつけたいのはやまやまだが、刺激するだけだろうし、しばらくは顔を合わせない方がいいのだろうか。 ホームルーム開始五分前に教室に到着した。 思い思いに雑談しているクラスメイトに挨拶しながら自分の席に向かう。 鞄を机に置いて椅子を引く。座って深呼吸。 ここまでは何事も無かった。 八時ジャスト。 予鈴が鳴る。 うちのクラス、2年C組の場合、予鈴=ホームルーム開始となることはない。 五分経過。 ……遅い。 と思った矢先に、派手な音を立てて扉が開かれた。 「みんな、おはよー」 遅刻などしていない、いや、それが当然だという顔で、両手をヒラヒラさせながら入ってくる一人の女性。 2年C組担任、藤村大河。 言わずと知れた藤ねえである。 決して本人の目の前で口にされることはないが、愛称はタイガー。 俺が通う学校の教師であるどころか、担任だった。 何か裏で含みのあるクラス割操作があったのではないか、と、勘ぐらずにはいられない。 「じゃあ、ホームルームはじめるわよ。と、その前に―――」 藤ねえはのんびりとした調子で、いきなり言った。 「―――転校生、紹介するから」 瞬間、クラスが沸き、ざわめいた。 朝、急いでいたのと、俺に「楽しみに」と言ってた理由がコレか。なるほど。 でも、こんな中途半端な時期に? 「男ですか? 女ですか?」 しゅたっと一人の男子生徒が手を挙げ、藤ねえに訊く。 「女の子よー。それも金髪の外人さん」 おおっと教室に生徒の歓声が轟いた。殊更、野太い声が強めの。 「大河センセー、その子、かわいいですかー?」 ストレートな質問が飛ぶ。 「もちろん、カワイイわよ。お人形さんみたい。 たった二週間の短い間だけど、みんな、仲良くしないとダメだからねー」 胸をそらし、まるで自分のことのように、自慢げに語る担任。 ちなみに、藤ねえは純日本人で、武芸?般、実家は地域密着型の極道という英語教師。 「それと後藤くん、先生のことは藤村先生って言わなくちゃダメよ。次に名前で呼んだら怒るから」 さらりと付け足したが、それは最後通牒だ。恐ろしい。 その後藤くんは気づいていないみたいだけど。 それにしても、 僅か二週間の滞在であるという、金髪、異国の少女。 ……ごく最近、知り合いになった少女の凛々しい立ち姿が頭に浮かぶ。 「………………」 まさかな。 いくら遠坂でも……いや、こういう前置きが出てくる時点で、やりかねない。 「実際、見たほうが早いわね。ささ、来て来て」 藤ねえが廊下に向かって手招きした。 いよいよお披露目。 過剰な歓声に包まれて教室入ってきた主役が、教壇の前に立つ。 「短い間ですが、皆さん、よろしくお願いします」 彼女は物怖じせず、ある種の威厳すら感じさせる振る舞いで、はっきりした日本語の挨拶をした。 「………………」 言葉を失う。 まるで、妖精郷から抜け出してきたような、可憐な少女は、 セイバーだった。 |