私には記憶がない―――

 薬と洗脳によって記憶が奪われ、同時に、そのことを哀しいと思う心も消えていた。
 代わりに殺人の技巧を塗り込める――――そのためだけの歪な身体を作り上げた。
 苦痛、恥辱、絶望を与える力を、与えられる魂をひたすらに研磨する。
 それより先は、ただひたすらに殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、 殺して、殺して、殺して、
殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺して、殺された―――

 こうして「ハサン・サッバーハ」の一つだった私が終わる。私が消える。
 ここに在るのは暗殺者の顔さえない路傍の石。
 数刻後には野犬の日糧になる肉片。
 ハサンは個を意する名ではなく、総体に冠せられたもの。私は終わるが、私と同じくする誰かがハサンを担う。
 ただそれだけの、歴史の闇に埋没する事実。

 だからかもしれない―――、
 存在の消失と肉体の崩壊の狭間にあって、初めて私が私のことを考えたのは。

 正しく”人”と云い難いこの身は殺めることだけを指向する道具。
 何も得るものがなく、また、失うものもなかった私に向けられるのは、常に嫌悪であり、そして侮蔑である。
 他者が私をどう評価しようとも、構わない。
 だが、問題は、私が私の生涯をどう感じているか。
 一般論以外に出せる答えがなく、それを悲しむべきものなのかさえわからずにいる思索は道化じみていた。
 私は、喜ぶべきなのか、怒るべきなのか、嘆くべきなのか‥‥
 空のこの身では、主観を語る術がなかった。
 ならば――――と、根源に通じる問いを天に穿とう。



―――私は誰なのだ?



 世界は答えを示す代わりに、答えを得る機会を提案した。
 断る理由はない。死して尚、私は私の手練を必要とするモノへ身を捧げることを誓う。

 こうして、私は歪な英霊の座についた。












   Faceless token.     01 / Tempest











 遠坂凛は完璧を期していた―――
 近く行われる聖杯戦争。
 聖杯自体に興味はなくとも、会場である冬木を管理する魔術師としての意地とプライドが彼女を促す。
 参加するからには自分が勝つ、と。
 ややもすれば、演技性人格障害とも受け止められかねない女傑に限って、手を抜くなんてことはあり得ない。
 不幸にして遺伝的に呪われた資質をも撥ね退けて、きっかり午前2時、彼女の魔力が絶頂の時分に儀式を行った。
 それは召喚。
 聖杯戦争に参加する資格にして、共に戦う従者となる英雄を降ろす儀式である。
 彼女が狙うのは<セイバー>役割<クラス>。最強、最良と言われるサーヴァントならば聖杯戦争は勝ったも同然だった。
 そして事は為る。
 爆ぜる光の奔流。その果てに現れたのは、深い空色のドレスに白銀の装甲を織り込んだ少女だった。
 遠坂凛は、見事にセイバーを引き当てた。

 完璧だった―――
 セイバーが女性、それも自分より年齢が低く見えるぐらいの少女であったのは、意外と言えば意外。
 西洋金属鎧を身に着ける女性の英雄となれば、正体はかなり限定される。
 自身が女であるだけに性差を気にする質ではなかったが、戦うには幾分力が足りないと凛は思う。
 が、それもいざ当人の口から真名を聞き及べば、いい意味で杞憂であったことを知った。

 アーサー王―――剣を担う英雄として、文句なしの最上位クラスに位置する 王の中の王<キング・オブ・キングス>

 英霊は後世の人々が抱くイメージをも反映するが、それで完全に本人が変わってしまうわけではない。
 歴史と真実の間に知られざる、或いは改変された溝があるのはよくある話である。
 生まれついての才能と、それを無駄にしない弛まぬ努力によって、凛は自分が一流の魔術師であることを自負している。
 その彼女をして、パートナーとなったのが、かのアーサー王だった。
 この布陣に死角なし。
 第5回聖杯戦争は、管理者<セカンドオーナー>たる自分が、 揺るぎない勝利をもぎ取る―――はずが、




―――何処からか、何時からか、何かが崩れ始めていた。
 表上に現れ、形になっている不安因子はない。強いて言えば直感。
 ただの気のせいならばいいが、またアレをやってしまっているのではないか、と前科があるだけに、凛の悩みは重い。
 じつのところ、彼女はそれが何であるのか知っている。
 けれど、魔術師的な精神と相容れない、個人的な感情であったがため、 都合よく思考の隅から外していた。そう、


 ‥‥衛宮士郎、あの男だ。


 凛にとって、士郎は旧知の仲というわけでもない。
 しかし、ただの学友と割り切れるほどの軽い相手でもなかった。
 凛は士郎の名前を知り、日常を知り、経歴を知り、趣味を知り、自宅の場所まで知っていた。
 肉親の想い人であることと、彼女自身の個人的な興味の二つの理由で、ほぼ一方的に彼を知っている。
 世間一般との繋がりを、冷淡に表面的に取り繕う凛にすれば、士郎という存在は少し特別な意味を持っていた。

 のほほんと夜道を歩いていた赤毛の少年は、出会ってはいけないモノと対峙してしまった。
 そこに居合わせてしまったのが掛値なしの偶然であっても、偶然を理由に見逃されることはあり得ない。
 大概、聖杯戦争の目撃者は、もっとも安易な証拠隠滅―――死によって口を封じられる。
 人の生死より、神秘の隠匿を優先する魔術師の常識は、総じて、世間一般の異常識でもある。

 つまり、彼女には見捨てることができなかった。
 相手は、たとえ万全の状態でも、届くか届かないかというような強敵。
 おまけに、既に別の敵と一戦しており、負傷を抱えていた。
 そんな状態なら、真っ先に逃亡するのが、マスターとしての正当な判断であろう。
 だが、凛にはそれができなかった。究極的なところで、決定的に彼女は甘い。
 それは従者<サーヴァント>たるセイバーも同様。 一般人を犠牲にするという考えは、端から彼女に存在しなかった。

 その結果―――、














「■■■■■■■■■■■――――――――!!」




 鉛色の暴風。
 咆哮が轟き、五感が痺れ、世界が震えた。
 一個の人の身では、抗うことさえ許されない圧倒的な脅威がそこにいる。
 二メートルを越える巨体は、苛烈な暴力を激らせる鉄塊だった。
 本能が警告する。
 これは「死」。あらゆるものを叩き潰さんとする暴力の体現である、と。
 目の前に立つだけで、心臓を鷲掴みにされるような感覚は、けっして誇張のうちに入らない。
 なのに―――

「二人とも下がってください。ここは私が押さえます」

 なのに、この少女は立ち向かう。
 無私の蛮勇ではなく、理知の決意を持って、自らが「押さえる」と宣言する。
 深い空色のドレスに、白銀の装甲を織り込んだ騎士の少女。
 それは一夜の幻夢のようでいて、輝く金砂の髪と新緑の瞳は、何処までも美しく、気高い。
 あの巨体がもたらす悪夢も、この少女ならば、と、錯覚するぐらいの威厳がその小さな背にあった。

―――だからといって、俺はそれを許すのか?




「何ぼーっとしてるの? 引きなさい! ここはセイバーに任せるのよ!」

 不意に背後から伸びた手に、士郎は腕を掴まれた。
 遠坂凛―――魔術師であり、魔術師であろうとすることを疑わない少女。
 士郎にとっては級友であり、級友以上のささやかな憧れを抱く対象が、普段の彼女らしくもない、厳しい表情でそこにいる。

「‥‥遠坂? これは、いったいどういう―――

「話は後よ。今は目の前のアレを何とかするのが先っ!」 

 士郎は言い掛けるも、すぐに凛がそれを阻んだ。強引に後ろへ下げられた。
 深く考えるまでもなく、世間話をする暇もないぐらい、ただならぬ状況なのは士郎にだってわかる。
 凛がアレと名指した巨体を、ただの通行人と考える方が不自然というものだろう。
 殺気と呼ぶにはあまりにもバカバカしいぐらい強烈な鬼気を孕んだ相貌は、迷うことなく二人がいる方を見据えていた。
 敵うはずがなく、逃げ切れるはずもない。
 単純にして明快な暴力を前に、士郎の膝は笑う。
 たまたまのバイトの帰り道に出くわしてしまっただけで、士郎にすれば事故のようなものだった。
 しかし、彼女たちは違う。
 遭遇は突発的なことであったが、少なくとも巨人が何者であるのかを知っている。
 口ぶりからして、アレを「何とかする」のは彼女たちであり、そうするだけの理由と力が彼女たちの方にあることを示唆していた。
 だとすれば、巻き込まれただけの士郎に何ができるというのだろうか。
 偶然居合わせただけの士郎は、黙って従うしかない。



「はじめまして、リン。それに、シロウも」

 ここで役者がもう一人―――

「わたしはイリヤ。イリヤスフィール・フォン・アインツベルン」

 揺れる銀髪。薄闇に映える瞳は赤。
 巨体の傍らにあって、その半分にも満たない体を翻す少女がいた。

「どう? 私のバーサーカーは」

 イリヤと名乗った少女は、分かりきった自らのサーヴァントへの評価を凛に問う。
 まるで、お気に入りの玩具を見せびらかすかの如く、ふふんっと小さく胸をそらした。

「―――っ」

 凛は歯を噛む。声が出ない。出すまでもない。
 体が触れるほどの近くにいる士郎には見えていた。
 彼女は厳しい表情で四肢を震わせ、肌寒い夜半であるというのに、額に汗を浮き立たせている。
 それがすべて物語っていた。


「ん〜、その様子だと、シロウはまだ呼んでないみたいだね。じゃ、今回は見逃してあげる。でも―――」

 イリヤは微笑む。優雅に、そして隠す気のない愉悦を浮かべて、無垢に。

「―――でも、リンと、リンのサーヴァントはここで殺すわ」

 スカートの端を掴み、イリヤは淑女の嗜みとばかりに軽く頭を下げた。そして決定的な一言を口にする。


「じゃあ、やっちゃえ! バーサーカー!!」

 少女はそう言って、嵐を解き放った。






 轟音と旋風を纏い、巨獣が坂を駆け下りてくる。

「リン、前に出ます!」

 セイバー告げたのは、問いかけではなく、宣言。戦うことの意思表示。

「―――お願い‥‥」

 凛は後ろ向きな不安を抱えつつも、セイバーに一任するしかない。
 この場であの狂戦士に、少しでも対抗し得るのはセイバーにおいて他にいなかった。

 その背に迷いはない。
 アスファルトを踏み砕きながら迫る狂戦士に向かって、セイバーは疾駆する。
 両者が交錯した―――


「■■■■■■■■――――――――!!」

「ぐ‥‥ッ!」


 尊大な剣戟の音が響き、火花が爆ぜる。
 剣圧に押され後ずさりながらも、セイバーは何とか踏み止まった。
 しかし、すぐに次がくる。
 ぞっとするような俊敏さで放たれた二撃目は、横薙ぎの払い。
 一見、巨体ゆえに愚鈍と取られがちだが、バーサーカーの肉体は力だけを追い求めた飾り物ではない。
 戦闘におけるすべての頂を、この狂戦士は持っていた。
 予知めいた直感で、何とか反応したセイバーは、剣を楯に全身でガードする。
 だが、狂戦士の猛進はまだ止まらない。
 終わりが見えない剣戟に、彼女は止め防ぐのを諦め、受け流しに入った。
 焦れる。
 黙って傍観するだけが魔術師<マスター>の役割ではないだろう。ならば、


「下がって――――!」


 凛の声が通る。刹那、意図を悟ったセイバーが、大きく後ろに跳び退いた。

「―――Vier Stil Erschiesung‥‥!」

 遠坂の秘術、変換・力の流動によって宝石に貯蔵していた魔力を、凛は、短い詠唱と共に開放し、放った。
 閃光を放ちながら、高密度の魔力は刃となり、弾丸となって、バーサーカーに降り注いだ。
 スピード、威力、タイミング、そのいずれもが完璧、ゆえに必殺。が、


「――――うそっ‥‥!」


 発した言葉は、ある種の賞賛、絶望の吐露。
 当のバーサーカーは、避けようとも、防ごうともせず‥‥、そして傷つきもしなかった。
 単純に、効いていない。
 決して劣る威力ではない魔術が、鉛色の肌の上辺で、すべて霧散していた。

 バーサーカーは凛を一瞥もせず、爆撃のような大剣を、みたび、セイバーに向け、振り上げた。
 援護が裏目に出た。
 剣戟のリズムが崩れたことで、逆に付け入る隙を与えてしまったのはセイバーの方である。
 構えてはいたが、完全に相殺し、捌き切ることができなかった。
 ガードはしたものの、大きく跳ね飛ばされて、アスファルトに激しく身を打ちつけた。

 凛は、ぞくりと、首筋が粟立つのを感じた。
 幸い、セイバーはすぐに起き上がった。間一髪のところで、距離を詰めたバーサーカーの斧剣を防ぐ。
 彼女は、威力を殺すために敢えて、自らも飛んでいる。
 だが、やはりダメージは少量で済ませられるものではなく、銀の鎧のあちこちがひび割れていた。
 口の端から赤い筋がこぼれるのは、内部に損傷を受けたためだろう。

 それでも、流れ出た血を拭い、セイバーは気合った。
 後退は許されない。自らが退けば、マスターに危害が及ぶとばかりに。



「どう? すごいでしょ。わたしのバーサーカー」

 寡黙なバーサーカーの代わりに、イリヤは幼い声で、歌うように言った。
 セイバーを圧倒するという、分かり易い形で実力を知らしめた自らのサーヴァントの雄姿に、艶然と酔った。

「勝てるわけないじゃない。わたしのバーサーカーはね、ギリシア最大の英雄なんだから」

「‥‥!? まさか―――」

「そうよ。そこにいるのはヘラクレスっていう魔物。あなたたちが使役できる程度の英雄とは格が違う」

「―――それって、反則‥‥」

 消え入るような声で凛が吐き捨てた。

「バーサーカーって、低質の英霊が能力を補うのに用意されたようなクラスでしょ」

「その答えは教えてあげる―――アインツベルンなのよ、わたしは」




 アインツベルン―――冬木における聖杯戦争の、遠坂、マキリに並ぶ御三家のひとつ。
 無為に魔術師を殺し合わせる聖杯は、自動的ではあったが、決して公平というわけでもない。
 引き当てたクラスと英霊の格によって、六割がた戦う前から勝負が決まっている。
 だからこそ、彼女は最強、最良と言われるサーヴァントと名高い <セイバー>を狙い、その手で引き当てたのである。
 アインツベルンにしても根本の発想は同じ。だが、

 ヘラクレスは、ギリシアの、いや、人類史全体から鑑みても不足ない、最大級の英雄だった。
 半神として地に降り、幾多の試練を乗り越えて天に至ったその所業は、某神の仔に似て、匹敵する。
 通常、サーヴァントの真名は隠される。
 クラス名で呼び、他のマスターに知られないようにするのが聖杯戦争におけるセオリー。
 名を知られてしまうというのは、その英雄の在りし日、すなわち弱点を知られることと同義だからである。
 だが、このバーサーカーにおいては、その限りではなかった。
 このような化外の英雄に、弱点など、何処にあろうか。
 生前の彼を悩ませた「我が子を狂い殺す」呪いも、ここでは何の意味もなさない。
 何故なら、既にしてその身は狂戦士<バーサーカー>なのだ。




「―――くっ‥‥うぅ!」

 こうしている間にも剣戟の音は鳴り響いていた。交錯する度に砂塵が舞い、風を裂く。
 彼女は何とか対応しているが‥‥、限界は近い。
 一進一退のように見えて、しかし形勢は確実に一方へ傾き始めている。
 大剣の一撃一撃を受けるたびに、少しずつセイバーの命を削られていくような、不吉なイメージが付きまとう。

 バーサーカーがふるうのは巨大な斧剣である。
 このレベルになると、もはや技術は意味をなさない。力任せの一閃は、風を裂くというより、暴力的に粉砕する。
 対抗するセイバーの得物は、不可視の剣、『風王結界』<インビジブル・エア>
 風を封じ、その圧縮された風が光の屈折率を捻じ曲げ、間合いを掴み難い透明な刀身を作り上げていた。
 拮抗する相手なら絶大な効果を生む剣だが、これがバーサーカーとなるといささか分が悪い。
 紙一重の攻防など無意味とばかりに剣勢をふるう者が相手なら、不可視の利点は利点とならなかった。
 このままでは不味いことをよく知るのは、他ならぬセイバーである。
 得物の差では現状を打破し得ず、凛の援護も、バーサーカーにしてみれば涼風。
 となれば、彼女に残された手段はひとつしかなかった。
 ちらりとセイバーは、凛を横目に流し見た。
 アイコンタクト。
 その意味は凛にも理解できている。彼女もまた、セイバーと同じことを考えていた。
 アレを使うか、と。
 しかし躊躇う。どうする? どうする? どうす‥‥‥‥



「―――どうする、遠坂っ! 何とかならないのか?!」

 凛は蒼ざめていた。だが、それ以上に必死な形相で睨んでいるのは、無関係なはずの第三者。

―――このおバカ、まだ、いたんだ‥‥

 この人外の戦闘に運悪く出くわし、巻き込まれてしまった少年、士郎が隣にいる。

「‥‥衛宮くん、あなた、まだいたの?」
 多少オブラートに包みはしたが、凛は内心をそのまま口に出した。

「見逃すって言ってるんだから、あの子の気が変わらないうちに、さっさと逃げなさい」
「そ‥‥、そんなこと、できるわけないだろ!」

 その視線の先にはセイバーがいた。
 彼は、血が出そうなぐらい拳を握り締め、苦悶の表情を浮かべて、悲壮な瞳で見つめていた。
 ただの普通の人間だから当然なのに、自分の無力さ、その苛立ちに胸を焦がしている。
 士郎はセイバーのために、涙を流さず泣いていた。
 自分自身が死の危険に晒されているというのに、傷つく彼女のために泣いていた。
 そんな男が‥‥、どうして自分だけ逃げることなど出来よう。


「―――で、どうなんだ? 何ができないのか? さっき使った魔術みたいなもので、何とか‥‥」

「‥‥アンタ、見たでしょ。効いてなかったじゃない。何とかって、そんな都合のいい魔術があるわけが―――」

 言いかけて、そこで、はたと凛は気づいた。

―――魔術と言った? 説明していないのに、アレを魔術と認識したの?

 いや、今はそれどころじゃない。
 士郎が言う通り何とかするのが先で、それを考えるのは後の話だと凛は戒めた。


 実のところ策はあった。
 現状、手元にある唯一。虎の子として温存してある武器―――宝具があった。
 宝具は、英霊の個を示す武器である以上に、力を持った幻想の具現そのもの。
 それならば、例えバーサーカー相手でも通じる。
 但し、問題があった。
 凛ないしセイバーに、宝具の使用を躊躇わせるに足る、それだけの理由があった。
 一つは強力すぎること。
 一度放ってしまえば、持ち主のセイバーでもコントロールしきれるものではなく、通過線を一様に薙ぎ払ってしまう。
 直接に当たることはないにしても、二次被害が凛や士郎に及ぶ可能性は決して低いものではない。
 何より、彼女たちが立っている場所は両端に住宅街を構える深山町の十字路である。
 外来の外道魔術師ならいざ知らず、この地の管理者たる凛にすれば、周囲に多大な被害をもたらす選択は難しかった。
 もう一つは使用のタイミング。
 セイバーの宝具は、真名を叫べば勝手に放たれる、そんな都合いいものではない。
 魔力を集約し開放するための、若干の溜めが必要だった。
 果たして、バーサーカーがそれを許すだろうか。
 今までただの一度も剣を当てることが出来ていないというのに。
 殺の剣であるはずが、逆に相手に必殺の機会を与えることになりかねなかった。

 とはいえ、黙って指を咥えて見ているだけでは、どうにもならない。
 時間の経過と共に、ますます状況は悪くなる。 一合受けるたびにセイバーの体は沈み、終わりの瞬間が近づく。
 決断の時が迫っていた。
 著しく分の悪い賭けではあるが、このまま攻めてもジリ貧で決め手がない以上、やるしかない。
 声をかけようとした。と、そのとき、


「―――ああ―――」


 陣営を同じくする二人からの短い悲鳴。
 セイバーが片膝をついた。
 割れた鎧の隙間、左胸を手で押さえ、苦しげに顔を歪ませている。
 押さえた手のひらの隙間から、止め止めもなく血が溢れ、セイバーの半身を赤く染め上げていた。

 凛は知っている。それはバーサーカーに傷つけられたものではない。
 遡ること数十分前、セイバーと凛はもう一人のサーヴァント、ランサーと対峙していた。
 その蒼い槍兵は、死闘の末に自らの宝具を使い、セイバーを槍で穿っている。
 結果は絶命に至らず、勝負は分けたが、完全に癒えぬままここにきて、致命を呼び込んでしまったのだ。

 無論、それをバーサーカーが見逃すわけもなく―――大剣を薙ぎ払った。





 ぐちゃ





 鈍く、水気を孕んだ不浄な音。

 今度こそまともにセイバーを捉え、無骨で荒削りな刃がセイバーの体に深くめり込む。
 高く飛んだ。
 セイバーの小さな体は、ずっと遠くに‥‥‥‥落ちた。



「セイバー――――――――――――!!」



 それは、誰の絶叫であったか。

 ‥‥鮮血が散っていく。

 セイバーらしきモノを中心に、赤い水たまりが広がって、昏天の月を映した。
 彼女の身体は破壊された。
 もう立ち上げる力などない。まだ生命を繋ぎ止めていること自体が奇跡。
 なのに――――――


「っ、あ‥‥‥‥」


 なのに、少女は立ち上がった。
 とうに意識はこと切れていながら、意思が彼女を立ち上がらせた。

 騎士の魂。王の誇り。

 守るべき者を守るため、誓った誓いを果たすために、彼女は何度でも立ち上がる。
 それがセイバーという少女の在り方であり、意思が向かう先だった。

 次の一撃はもう、受け止め踏み止まることも、避けることもできないだろう。
 バーサーカーは動きを止めている。主の命令を待っている。



「ふうん、まだ立てるんだ‥‥‥でも、もう終わりね」

 イリヤがすっと目を細めた。勝利を確信した愉悦と、敵に止めをさそうとする嗜虐の微笑み。


「いいわよ、バーサーカー。そいつ、再生するから、首を刎ねてから犯っちゃって」


「■■■■■■■■――――――――!!」


 主の号令を受け、ソレが動く。セイバーへの最後の慈悲を手向けんがために。







 なにか、考えがあっての行動ではなかった‥‥

 代わりに戦うことなど出来ない。近づき、鬼気に当てられるだけで死んでしまう。
 飴細工のように、根元から折れ曲がった街灯が目に止まった。
 破壊の意思があったわけでなく、ただ通過点にあって触れただけなのに、あの惨状。
 金属の街灯と人間の体、どちらが丈夫か考えるまでもなかった。
 近づけば死ぬ‥‥確実に死ぬ。

 だが―――それが何だというのか。

 目指す理想があった。
 正義の味方になると足掻くこの男が、傷つく彼女を前にして、無力であっても無抵抗でいられるのだろうか。
 例えどんな理由があっても、士郎は倒れ苦しむ誰かを見捨てることはできない。
 誰もが幸せでいられる世界を。衛宮士郎があの日誓った理想を、自分自身が裏切るわけにはいかない。
 なにより、傷つく彼女を見たくなかった。
 もう傷ついてもらいたくなかった。

 そして、士郎は―――全力で駆け出していた。


「なっ!?」

 愕然と発した声がある。
 叫んだのは凛。隣で歯を噛んでいたはずの少年が、脇目も振らず災禍の中心へ走っていくのを見たからだ。

「あのバカッ!―――Vier Stil Erschiesung‥‥!!」

 吐き捨て、反射的に宝石を掴む。異形の巨人に向けて、凛は再び魔術を放った。
 数ヶ月分の魔力が貯蔵された宝石は、シングルアクションで大魔術に匹敵する凶悪な波動へと変換される。
 それでも効かないのは実証済み。だが、目くらましぐらいにはなる。閃光が弾けた。
 届く。
 士郎は援護に感謝しつつ、全力で走った。 頭から飛び込み、両手を伸ばす。
 セイバーに触れた。両腕でしっかり抱きしめた。


「■■■■■■■■――――――――!!」


 振り下ろされる凶器。
 士郎はセイバーを捕らえてから、すぐさま回避行動。押し倒して、そのまま転がった。
 間一髪のところで斧剣が空を切り、地面を砕く。砂塵が舞う。
 押し付けた胸から伝う熱で、自分が助かった、助けることができたことを知り、士郎は刹那に安堵した。
 しかし、彼の無謀な試みは成功したものの、これで安心できる状況ではない。

 潰し殺すはずだった一撃は、獲物を捕らえること敵わなかった。
 だが、バーサーカーはそんなことでは驚かない、躊躇わない、戸惑わない。
 バーサーカーがバーサーカーであるが故に、もとよりそんな感情は持ち合わせていない。
 半ば埋まった大剣を即座に引き上げ、次の一撃を見舞うべく、構えた。

 ミスがあったすれば、目前の危機を重視するあまり、分かりすぎる「次」への対処を怠ったことだろう。
 今度こそ、完全に、一切の妥協なく、‥‥殺される。

「‥‥ダメ、かな」

 思わず、士郎の口からそんな言葉が漏れた。
 その身は「正義の味方」になるために捧げられたもの。
 諦めたくないし、助かりたいと思う。ここで終わらせていい理由はない。
 しかし、人間の枠にある限り、決して超えられない壁が存在する。それが今だった。
 盾にすらならない。
 結局できたのは、容易く予見できる無常な結末を数秒、先送りにすることだけ。


―――それでも、こうなることが分かっていても―――きっと、間違いじゃない。


 凛が何かを叫んでいる。声が遠く、士郎の耳には届かない。
 何かを悟ったか、今まで無反応だったセイバーが、 庇うように、宥めるように、背中に這わした腕をぎゅっとする。

 そこで士郎は考えるのを止めた。
 目前で揺れる金糸の髪。そこに顔を埋め、静かに目を閉じた。

 死神の鎌と呼ぶには無骨すぎる斧剣が、すぐさま頭上で翻され、そして―――、






 ガゴォォォン!!









「――――――――――――――――」


 静寂。

 沈黙。

 違和感。

 士郎は目を開けた。
 空気を破砕し、砂塵を舞わせ、叩きつけた衝撃に狂いはない。

 では、どうして生きているのか。
 どうして、自分が巨体の背を見ているのか。


 焦点が合い、目が一点を見定める。









 ‥‥白い髑髏が闇に浮かんでいた。















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